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自然(しぜん)と自然(じねん)

「自然」という字の読み方、ふたつ

2019年10月、関東地方に猛威を振るった台風19号。その爪痕つめあとがまだ色濃く残る東京近県の、ある神社参道で、グッズページで販売している「スポーツタオル」の撮影をした。テレビニュースで見た多摩川や荒川氾濫の知識をはるかに超える台風の影響に驚かされた事だった。

訪れた場所では大きな樹木は倒れ、枝は引き裂かれたように垂れ下がっていた。そんな痛ましいまでの影響を受けながらもなお、その運命を泰然たいぜんとして受け入れているかのように私には思えた。自然が持つ強さなのだろう。

さてこのところ、運営しているサイトに掲載する映像・写真の撮影のため、方々の渓流や滝や台地を訪れている。いずれも自然に恵まれた場所だが、〝自然〟という言葉には本来どのような意味があるのだろう。少し調べてみた。

現在では〝自然〟といえば普通、〝nature〟の意味で使われている。これは異文化を速やかに導入するために大量の翻訳が必要だった明治時代に、natureを〝自然〟(しぜん)と和訳したのだそうだ。〝みずか〟ら〝しか〟るべき、とは何と名訳ではないか。

同じ漢字文化を持つ中国で〝自然〟とは〝じねん〟の意味になる。〝じねん〟は、道教に由来する言葉で、老子に『万物がありのままであることを認めて、それに手を加えないのが聖人である』という一節がある。

これは〝nature〟の意味ではなく、人間の内面的・精神的な行動や状態を表す言葉であったのだ。仏教用語でも〝自然〟と書いて、〝じねん〟と読む。中国に仏教が伝えられた時期に、従来から存在していた道教の思想が影響・融合したのかも知れない。

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なぜ助けてあげないの?、監視員さん !!

この老子の言葉を見て、あるドキュメンタリー番組を思い出した。それはアフリカのある野生動物保護区での出来事だった。保護区では定期的な見回りをしているのだが、一頭のライオンの仔が、母親を亡くして草原をさまよっているところを監視員が発見したのだ。

自分で餌を得ることも出来ないライオンの仔が生き延びられるのは、他の群に加わることしか道はない。監視員はその仔を保護して、命を救うことも出来る。しかし、保護区の監視員はそれをしなかった。

その仔が生き延びられるよう、心から祈りながら、ただ見守るだけなのである。野生の世界では悲しい結末になる可能性が高いにも関わらず、手を差し伸べることをしないのだ。これはどういうことなのだろうか。

監視員には野生動物の世界の秩序を保つため、という理由も勿論もちろんあるだろうが、野生動物の世界という〝自然〟に対する限りない畏怖いふの念、或いは深い畏敬いけいの気持ちを持って、そのような行動をしているように私には思えた。

発達した科学によって得た知識を不用意に使おうとしないのは、自然の前に於いて、人間が思い上がっていないから、であろう。自然の営みには、常に「生じ」「変化し(老いる)」「滅する」という確たる法則が存在している。それに対する畏怖いふを持っているがゆえ、ではないかと考えた。

その自然の法則の前に於いては、発達した文明も進んだ科学も、沈黙せざるを得ないのだ。何故なら、そのいずれをってしても、この自然の法則を変えることは出来ないのだから。

ひたすら見守っていた監視員は、その大いなる自然の法則へ真摯しんし畏怖いふの念を抱いて行動していたのだ。人間の思い上がりを厳しく自制したその処置に頭の下がる思いがしたものだった。安易に人間が手を貸さない。それこそが本当の意味での保護区、ということなのではないのか。

そして〝じねん〟と呼ぶ方の「自然」の意味である『万物がありのままであることを認めて、それに手を加えないのが聖人である』ことにも通じる部分があると思う。

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昔、自然には「利益」と「危険」が内包されていた

私たちが撮影に行く場所も、自然保護区となっている箇所や、そこに生活の場を持っている人たちや訪れる観光客の安全のために、人工的な工作物が存在している。

ということは、この時点で既に本来の意味での〝自然〟では無くなってしまうのだが、これは致し方のない事だろう。

元々そこには人間は住んでいなかったか、住んでいたとしても、たった百数十年前くらいには秩序の中に成立していない、つまり展開されていない自然界、だったのだろうから。

その時代には、「自然」とは人間に山河の恵みという形で利益を与えてくれると同時に、危険な箇所でもあったはずだ。それだけに、古い時代には自然物に霊性が存在することを認めて、自然を拝み、現代人が思う何倍も大切にしてきたのだと思う。

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〝あの頃〟に帰り・・・たくない、 帰れない

そこには、自然に対する畏怖いふの念が確かに存在していたに違いない。そしてそのおそれの心を薄めてしまったのは、発達した文明ではないかと思うのだ。

誤解しないで頂きたいのは、私は文明の発達を批判するつもりはない、ということだ。現に、今、電気と科学の力を借りてパソコンでこれを書いているのだから。

しかし文明の発達は不可逆的ふかぎゃくてきなものだ。その恩恵に浴し、それが当たり前になり、そしてまた発達すればするほど、人間というものは思い上がりも激しくなりそうな予感がしてしまう。

ひとたび〝便利〟な生活を経験すれば、もう元には戻れない。数年前に自宅の給湯器がよりによって大晦日の前日に故障してしまった。直ぐに修理を頼んだが、時期が良くない。

結局、元通りお湯が使えるようになるまでに一週間かかってしまった。その間は朝の洗顔も、食器洗いも、洗濯も全て水。流石さすがに冷水シャワーを浴びる勇気は出なかった。

その一週間の間、飛び上がりたい程冷たい水で洗顔しながら、そういえば自分がまだ幼かった頃は、真冬でも洗顔は水だったっけ、と思い出したものだ。それがいつしか洗顔も、食器洗いもお湯を使うのが当たり前となってしまった。お湯が使えてありがたい、とも特段、思う事もなく。

そして今、思うのは、その文明を生み出した〝知恵〟をって、人間としての〝智慧〟を忘れないで欲しい、そうありたい、という事なのだ。自然というものへのおそれの気持ちと敬意を忘れないで在りたい。

自然の力というものは素晴らしいものなのだ。そして恐ろしいものでもある。撮影のロケに行くたびにその思いが強くなってゆくこの頃だ。

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                     文責・写真 : 大橋 恵伊子