アレ・ソレ・ナニ
ある紳士の言葉
先日、ある喫茶店で一休みをしていたときのこと。隣のテーブルに座っていたお年を召した男性が、おもむろに上着のポケットからスマートフォンを取り出して、どこかに電話をかけ始めた。
どうやら相手に通じ、しばし時候の挨拶などを交わしていたようだったが、突然「そうそう、そういえばこの前、アレしたナニねぇ・・・」としゃべり始めた。
人様の話を盗み聞きするような品行下劣な真似などしたくない人間である私としては、努めて会話には素知らぬ顔をしてコーヒーなんぞいただいていた。が〝アレ〟した〝ナニ〟、というのに、どうにも耳の方が反応してしまい、聞くともなしに聞いてしまった。いや、聞こえてしまったのである。
その男性、どう見ても国家転覆のクーデターを目論む密談など、他人の耳を憚らねばならない物騒な人間でもなさそうだ。そのうち、くだんの〝アレ〟’した〝ナニ〟も事無きを得たようで「そうかそうか、そりゃあ良かった」とご機嫌な様子で電話を終わったのだった。
ご当人はそりゃあ良かったのかもしれないが、こちらは良くない。そのあとしばらく〝アレ〟’した〝ナニ〟に拘ることになってしまった。
〝アレ〟の用法に拘る !!
〝アレ〟とか〝ソレ〟とかいう言葉は指示代名詞である。
Goo国語辞典によれば、〝アレ〟(彼)の意味はこうなっている。
1 遠称の指示代名詞。
㋐第三者が持っている物、または、話し手・聞き手の双方に見えている物をさす。あのもの。「―は何だ」「―が欲しい」
㋑双方に見えている場所をさす。あそこ。「―に見えるは茶摘みじゃないか」〈文部省唱歌・茶摘〉
㋒双方が知っている過去の事柄をさす。例のこと。「―は忘れられない出来事だ」「―以来からだのぐあいが悪くってねえ」
2 三人称の人代名詞。双方に見えている人、分かっている人をさす。あの人。「―が君の妹か」
3 二人称の人代名詞。あなた。「―は何する僧ぞと尋ねらるるに」〈宇治拾遺・一〉
この説明からいえば、この男性の〝アレ〟は、さしづめ1の◯ウに当たる用法だろう。
「双方の知る何事か(〝アレ〟)が起こり、何らかの方法で対処(〝ナニ〟)したが、それがうまく運んだようで良かった」という単純な話なのである。
しかしこの会話はいろいろなことを私に想像させるに十分だったようだ。
二人の紳士(と敢えて言っておこう)は、かねてよりの親しい知り合いであり、従って常日頃から連絡も良く取り合っていて、お互いの近況もよく知り合う間柄なのだろう、仕事の同僚なのかしら、いやいや歳格好からいって趣味のお友達?、とかくだらないことを様々妄想しているうちにあることを思いだした。
便利すぎる〝アレ〟とか〝ナニ〟
井上堯之のライブでのこと。
MCでいろいろ話をしているうちにふと、いうべき言葉をど忘れしたか、「あ~、あれ、なんだっけ?、ほら、ほら」と言葉が出てこない様子。
すかさずPA席から「○◯ですか」と一声かけた。
果たして、「そう!、それそれ!」と思い出して無事MCを続けた。ライブが終わってファンの方から「大橋さんすごいですね、〝あれ〟でよく判りましたね」と言われた。
井上の言いたいことを、‘’アレ‘’の一言で判ったのが、手品のように不思議で凄い、と思われたのかもしれない。
タネを明かせば、普段会話している話題で、内容がわかっていたから助け船をすぐに出せた、というだけのことだ。ちっとも凄いことなどではない。
事ほどさように、アレやソレなどの指示代名詞だけで理解できるというのは、双方の共有情報が多いということになるのだろう。
しかしアレもナニもあまりに便利すぎるからといって、過度に使うと人間が怠け者になりそうだ。人間が、というより思考能力が怠けるというべきか。よほど他聞を憚るような事柄ならわかる。が、単に双方理解している事柄について、アレとナニとソレで意を通じてしまうのはある意味、安直に過ぎるように思う。
行きつけのバーの止まり木で、マスターに「いつものアレ!」と注文する、ちょっとカッコつけた人の場合は別にして、やはり話中での事柄はあまり省略しすぎない方が良いように思う。
倉本聰先生の演劇「歸国」・心に浸みた言葉
話は横道に逸れるが、井上が小樽にいた頃、富良野演劇工場の倉本聰先生から新作公演のお招きを受けた。公演は書き下ろしの演劇・「歸国」。〝帰国〟の〝帰〟はあえて旧字体の〝歸〟になっている。
物語のあらましは、太平洋戦争で南海に散った英霊たちが一隊を組織して、真夜中の東京駅に列車で到着する。彼らは許された時間の中で現在の日本の状況を〝偵察〟し、日本が本当の意味で〝平和〟になっているかどうかを仲間たちへ報告する任務を持って〝歸国〟して来た、というストーリー展開になっている。
英霊たちの姿は生きて生活している人間からは見えない、という設定だ。
彼らの見る21世紀の日本は、見たことも想像したこともない道具やシステムに溢れている。携帯電話、給湯システム、道路を埋め尽くす自動車自動車・・・。
ある若い英霊はその便利さを讃えるが、年嵩の英霊が言う。「何?、便利になったって?、人間がただ不精になったというだけのことじゃないか!!」。
この言葉は胸を突いた。
普段私たちが当たり前のように使っている〝文明の利器〟の数々。わずか70~80年前には無かったもの達。
そしてそれらが利用できなくなった時の私たちの大きな困惑や不便さ。
決して科学の発展を否定するものではないが、〝便利になった〟ことの裏には多少なりとも〝人間が不精になった〟部分もありはしないだろうか。
別の気がかり??
ネットで買い物、翌日には自宅へ届く。自販機で買える飲み物、タバコ・
・・。
それにつれて対面販売は益々減少する。それが普通になっている現在。
感染防止対策のために設けられた多くの制約の中で、それら文明の利器は有益に働いたのだろうか、不便に思うこともあったのではないか?。考えは、止めどない。
科学の発展につれて不精にならないよう、せいぜい自分の身体を使うことを考えようかと思う。
そういえばこのところ私も〝アレ〟とか〝ソレ〟とか言うことが多いのに気づく。ただしこれは無精を決め込んでいる訳ではなく、脳ミソの経年劣化によるものなのだ。
まったくもって困ったことである。
文責・写真 : 大橋 恵伊子