
誤変換
パソコンのご機嫌をとる
文章を筆記用具ではなく、指でキーボードを叩いて入力する方式が一般的になってもう数十年が経つ。
読みやすい文書が迅速に出来上がるのは結構だが、困ることがある。それは誤変換という厄介が、まま、起こることだ。
何十年もキーボードを叩き慣れていても、変換ミスに気付かない時だってある。タイプミスなら大体、打った瞬間にその感じ方で分かるものだ。
しかし漢字への変換は、ある程度はパソコンソフトの判断と経験値に任せることになる。しかし時にはパソコンの方だって、気が乗らない時もあろう。
えい、ここはこの漢字を出しておけ、くらいの魂胆があるかも知れない。
そこを、まぁなんとかよろしくお付き合い下さい、とこちらがいくら下手にでても、誤変換はやはり起こるのである。

パソコンにしてやられる
先日、ある文章をメール送信した。
返信には、文章に誤変換があったことが指摘されてあり、ご丁寧にも「笑えると思います」と記されていた。
その時は、パソコンもよほど虫の居所が悪かったのだろう、3ヶ所も誤変換があった。
その間違いぶりを列挙してみると・・・。
綺麗な警官
侵攻方向左側
陽が嗅げるのを待ち
という具合。
それぞれ、綺麗な景観、進行方向左側、陽が陰るのを待ち、であることは、文脈や音で判断はつくであろうから、こちらの意図するところは理解されたと思う。
しかしこんな文章を送り付けられた方は、さぞびっくり仰天した事だろう。
何しろ、「綺麗な〝警官〟が、左側に〝侵攻〟して、陽の匂いを〝嗅げる〟のを待っている」のである。
もはや笑うしかない。

パチパチ、カタカタとペンだこ、どちらを取るか
昨今では、文章を書く、というより文章を〝打つ〟という作業の方が、圧倒的に出番が多い。
手にペンだこを作りながら文字を〝書く〟ことは、プロの物書きであっても少ないようだ。
今や、猫も杓子もパチパチ、カタカタと一心にキーボードに向かうのである。
かく言う私も、パチパチ、カタカタの比率は上がる一方だ。
ところでこのパチパチ、カタカタとペンだことでは、脳へ働きかける程度、というか、刺激という点においては同じなのだろうか。
昔から指先を使うということは、ボケ防止に有効だと言われている。
学問的に実証されているのかどうかは知らない。
しかし、何となく指先を使うと脳に良い刺激が与えられるような印象は確かにある。
と言うことであれば、パチパチ、カタカタもペンだこも指先を使うことではあるし、どちらもそれ相応に頭も使う部分がある作業ということができる。
それなら、普段の悪筆も体良くカバーできるキーボードの方が選択されるのは当然のことだ。
現代の社会は、綺麗で迅速な作業が期待できる方式を求めている。
ということで両者の求めるところは無事に意見の一致をみて、メデタシ、メデタシとなる。
しかしこのパチパチ、カタカタは、手で書き、時折、辞書で漢字を確認する必要がない。
この点、ぬるま湯に浸かっているような緊張感の少ない、春のような状態が続いていくことになるのではないか、という危惧もなくは無い。

ぬるま湯的書字作業?
思うに、字というものは手で〝書く〟という作業をしていないと、次第に忘れてしまう訳だが、思い出せればまだ良い。
が、そんな事態が度重なると精神衛生上、甚だよろしくないことになる。
もしや、そろそろ・・・と不安が頭をもたげるお年頃なのだ。
ならば手で書けば良いではないか、と言われても困る。
全ての書字作業を手書きには出来ないのが現代社会なのだから。
それが許される場合は出来るだけ手書きで、を励行していく折衷案で行くしかない。
なぜ、こんなことを長々しく書いているのか。
このぬるま湯的書字作業は〝思い出す〟という脳の緊張感をもしかしたら緩めてしまって、次第に脳ミソもぬるま湯に浸かったように判断力が弱まっていくかも知れない、と心配しているのである。
コロナウィルスの正体がまだはっきりと把握できていなかった頃、沢山の人々が、正しい判断力を失ったとしか思えないような発言、行動をするのを見てきた。
何とも信じられない思いがする。
なぜ自分で考えないで、出所の怪しい(とも感じないのかも知れないが)情報を鵜呑みにしてしまうのか。
なぜ自分で正確な情報を得ようとしないのか。
これは現代人の脳みそが、ぬるま湯にどっぷり浸かってしまった結果かも知れないと感じられて、肌に粟を生じる思いがする。

〝笑えない〟誤変換
畢竟、誤変換をするのはパソコンだけではない。
人間の脳みそも物事を誤変換してしまうようになってしまったのではないだろうか。
人間が物事を誤変換するようになると、これは先の例のように笑うしかない、と言う訳にはいかなくなる。
深刻な事態に繋がりかねないからだ。
ぬるま湯云々の話は別として、脳みその誤変換の原因は先入観が一つの要因になっているのだと思う。
先入観による見間違い、或いは誤った思い込みも、言って見れば〝誤変換〟の後にアウトプットされた結果なのだと思う。
そして、自分で判断せず、多数に拠るというステレオタイプが存在している限り、この類の誤変換は改まらないのだろう。差別しかり、イジメしかり、なのである。
誤変換はパソコンの事だけにして、〝笑える誤変換〟が良い。

文責・写真 : 大橋 恵伊子