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「当たり前」の反対語

 

約2年にわたる with コロナの生活はこれまで馴染んでいた日常を大きく変えてしまった。次々と出現する”新しいタイプの株”にも関わらず、幸いなことに現在、感染者数は減少傾向を保っている。

「当たり前」だと思っていたこと

 街中には人々が戻り、〝新しいライフスタイル〟とか〝ソーシァル・ディスタンス〟という言葉も耳に馴染み、マスクは必需品としての地位を得た感がある。

 様々な規制が緩められた現在でも、まだ2年前の状態に戻ってはいないが、随分と自由度は増したように思う。

 不要不急の外出自粛期間を振り返ってみると、今まで当たり前のようにしていた様々なことが出来ないか、制限されるかの制約のある毎日だった。

当たり前のように毎日行っていたスーパーマーケットへの買い物。
当たり前のように乗っていた電車やバス。
当たり前のように通っていたお勤め先。
当たり前のように繰り出していた夜の歓楽街。
当たり前のようにマスク無しでしていた会話。

 これらの行動が制限されて、初めて当たり前が当たり前ではなくなった期間だった。一体どれほどの人たちがそのためにどれだけの影響を受けたのだろうか。それを思うと心が痛む。

乗蓮寺の銀杏(東京都・板橋区)

「当たり前」と「ありがとう」

 その「当たり前」が「当たり前」で無くなって、ふと「当たり前」の反対語は何だろうと考えた。

 「当たり前」の反対語は、何だとお思いだろうか?。私は「ありがとう」だと思う。ちょっと観念的ではあるが・・・。

 「ありがとう」は仏教語が語源になっている。六道輪廻ろくどうりんねの逃れ難い巨大な輪の中で、〝人間〟に生まれることは〝有り難い〟(起こり難い、なかなか成り難いことだ)というのが本来の意味だった。

 夫婦だから、親子だから、友人だから・・・。毎日のほんの些細な事でも、何気ない事でも「当たり前」のことなどは無いのだ、と思う。

 いかに普段、何の制約もされていなかった事を当たり前のことだと感じていたか。「当たり前」に出来なくなって初めてそれは単なる勘違いだったと思い当たるのだ。

乗蓮寺(東京都・板橋区)

いつも「ありがとう」の気持ちを持って

 世の中には当たり前のことなどは無いということ、近しい間であればあるだけ、何でもないような事であればあるだけ、つい忘れてしまいがちな「ありがとう」という感謝の気持ちを改めて思い出してみたいものだと思う。

コギク

文責・写真 : 大橋 恵伊子