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吉川英治・「新・平家物語」

初めての「平家物語」

 吉川英治作品を初めて読んだ。勿論、昭和を代表する大作家である事は十分承知していたが、この年齢になるまで何故か読んでいなかったのだ。

吉川英治という大文壇に対して近寄りがたい、というか、何かはっきりはしないながらも意識しない先入観のようなものもあったのかも知れない。それが突然のようにこの大作を読むきっかけとなったのがひとえに〝経済的理由〟であったのには、我ながら苦笑せざるを得ない。

永らく愛用している電子ブック端末にダウンロードしたいと思う本を探している時、「新・平家物語」全16巻プラス「新平家落穂集〜筆間茶話〜」合本がなんと99円!!、というのを偶然、見つけたのだ。これには惹かれた。

いずれは「古典平家物語」を、と思いつつもその機会を掴み得ないでいたので「新平家」は〝小説〟ではあるものの、「古典平家物語」(以下「平家物語」)への前段階的に読んでみるのも良しとして購入したのである。

なにせたったの99円で16巻全てを読めるなんて、こんなにおトクなことはない。

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〝祇園精舎の鐘の声〟は人間愚への警鐘なのか?

 「平家物語」と言えばすぐ思い出されるのが、〝祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり〟で知られるあの有名な書き出しだろう。たしか高校の頃、古典の教科書にも取り上げられていたように思う。

栄枯盛衰、人の世の〝あわれ〟と、仏教観(無常観)が全編の底辺を貫いている。

「新・平家物語」にしてもその〝あわれ〟が全編の根幹となっているのは同様だが、小説であるぶん、氏の考察・想像と創作が、その〝あわれ〟と見事にあざなわれている。

そしてまた、諸行無常のことわりのもと、人間というものが持たざるを得ないごうやそのごうに引き据えられてゆく人の生き様への憐憫・愛惜の情と言えるものも基底にあると思われる。そして人間の繰り返す宿業しゅくごうに対する哀しみもあるだろう。

同時代人の鴨長明「方丈記」中の〝昔ありし家はまれなり。或いは、去年こぞ焼けて今年作れり〟とある如く、とにかくこのころの都(京都)は一再ならず戦火に焼かれていたのだ。

それを目の当たりに見ていた鴨長明にしても、その見聞は歴史全体の経過の内では、ほんのひとコマでしかない。今を去ること、数十年前にも人はその〝戦火〟を見ているのである。いや、今現在でさえ、戦火に喘いでいる人々が存在している。

なんという恐ろしい繰り返しだろうか。氏はこのことを「人間愚」と言い、「〝祇園精舎の鐘の声〟は人間のばかさへの警鐘」とも言っている。その氏の心は、〝愚を犯す人間〟へのあわれをも、いきおいもよおすのだろう。

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吉川英治・慈悲のまなざし

新・平家物語」に登場する人物には、真の悪人という人間は現れない。どこかに稚戯ちぎが感じられ、同情を寄せた描き方をしている。

歴史の中での事象というものは、すべて何らかの形で既に決着がついているものだ。その中の〝悪〟を人に見るのをあわれとし、その根源となるべき本当の悪は、今なお持続して、その根を絶やさずにいるのではないだろうか、氏の想いはどうもそのようにあると思える。

つまり清盛であれ義仲であれ「平家物語」で極悪非道の権化のように書かれている人間たちを、もっと大所・高所から俯瞰しているかの如くなのだ。歴史中の事象が決着しているからこそ、そのような俯瞰が可能にもなるのだろうがこれはある意味、氏が持っておられる慈悲心と言えるものではないかと思う。

そして忘れてならないのは「平家物語」は鎌倉時代に成立しているということ。「平家物語」の作者は諸説あって正確には不明だが(信濃前司行長という説が有力)、成立時期からしても〝勝者が敗者のことを書いた物語〟であるということである。

勝者が敗者を描くとき自ずと表れる心を、氏は自らの心に照らしてのち、書いておられるということなのだと思う。

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現代にも続く「平家物語」の心・無常感

それにしても「平家物語」というテーマは、日本人にとって心に深く根ざすもの・日本人のDNAに刷り込まれた無意識的意識ともいうべきものを持っていると思われてならない。

今でも残っている言い方の「判官ほうがんびいき」や「都落ち」は、九郎判官義経へ人が寄せる同情の心であり、義仲に敗れて都を去る平家人のことなのだから。

それにしても人間に負わされた〝ごう〟というものの、いかに根深く取り去り難いものであろうか。いっときの安らぎに満ちたようなラストシーンの平安すらも、永遠のものではない。それも〝無常〟を込めたものの一面であるに過ぎないのだと思いつつ、満足のうちに読了した。

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文責・写真 : 大橋 恵伊子