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巷によくいる変人の四方山日記

あぁ、所詮はこんなものか。

そんな風に思って生きてきた。

期待しては裏切られ、期待してしまう己の愚かさを克服しようと足掻き、受け入れられない運命には抵抗し、抵抗虚しくそれに飲まれ。

誰しもが何かを抱えて生きているけれど、御多分に洩れず私もそれなりの波瀾万丈を味わいながら幸と不幸を繰り返して来た。

こう生きるしかなかった中で、自分がどうしたいのか、何を望んでいるのかを知った。

それを叶える為に、希望と絶望の中を今も生きている。

 

私はもうすぐ39歳になる。

2回目の成人、40まで1年。何の記念でもない中途半端な年齢。

「人」に「成る」と書いて成人にも関わらず、ハタチの時の私は恐ろしい程に子どもで。

2回目まであと1年という今、ようやくその時の己を「子どもだった」と言える程度には「大人」……なのかもしれない。

 

かもしれない、と書いた事には理由がある。

人それぞれの「大人の定義」があまりにも違い過ぎるからだ。

実際、私が子どもの頃に描いていた「大人」は今の私とは全く違う。

 

普通に大学に入って、普通に就職して、普通に恋愛して結婚して子どもを産んで。

40までにはきっと普通に幸せな家庭を築いて、子育てなんかも経験しているんだろうな――

何の疑いもなく、自分にはそんな「ごく普通の幸せな未来が待っている」と信じていた。

 

さて、実際に迎えている未来=今の私はどうだろう。

想像していたような未来は1つも現実になっていない。

それどころか、世の中においてはいわゆる「負け組」「干物」と呼ばれる類の「イタい」人間だろうと思う。

 

が、しかし。

むしろそんな「普通」を実現出来ている人が、実際に何人いるのだろう。

それを実現出来ていたとして、その人達は自身の望んだ幸せを手に出来ているのだろうか。

そして、私と同じような「描いていた未来とは全く違う今」を生きている人達は不幸なのだろうか。

夢を叶えた人は皆幸せなのだろうか。

叶えていない人は不幸なのだろうか。

 

少なくとも私は、適度に不幸だが叶えたかった夢をいくつか叶えて手にしている。

気が狂うような淋しさや生き地獄を味わって来たけれど、今は幸せを実感出来る事がとても多い。

はたから見ると残念かつ可哀想なオバサンらしいが、なりたい自分に少しずつ近付けている。

泣く事は多いけれど、大好きだと言える人達との繋がりがある。

その人達から「大好き」を返して貰えている。

…これを幸せと呼ばずに何と呼ぶんだろう。

 

描いていた「普通」は何1つ形になっていないけれど、「普通じゃない」今の私は「それもよくある普通の事」だと知っている。

「普通」なんてものが、如何に曖昧で貴重でくだらない価値観なのかを知っている。

「変わっている」「普通じゃない」と言われて悩んで泣いて来た自分が、どれだけ「普通」なのかを自覚出来ている。

 

これは、そんな「巷によくいる普通の変人」である私の人生と、様々な物事に感じる事を徒然なるままに書き連ねるnoteだ。

全くの無名な私の、誰にも届かないかもしれない、誰かに届くかもしれない思いと願いを込めて……

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