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女性らしさという儀式を演じ続ける女

もう何十年も前、両親と私とで初詣に行った時のことだ。
授与所で、お札か何かを買おうとしていた。
値段はそれぞれ違う。高いものか、安めのものか。
父は「どれがいいだろう」と母に一瞬相談した。
母は落ち着いた顔で、「お好きなものをどうぞ」と言った。自分の意見など言わずに父に判断を委ねたのだ。
それを見ていた受付のおばさんが、私の顔をチラリと見て、こう言った。
「素晴らしいお母さんだよ。見習うべきだ」
私はその意味が全然理解できなかった。母の態度のどこが素晴らしかったのか。一歩下がって、父を立てていることらしいのだが、本当にそれが素晴らしいことなのか、疑問だった。「女として」そうすることが、最上級の嗜みと決定づけられていることのようで、余計にモヤモヤしたことを記憶している。


雑誌をよく読んでいた時、これは、という記事をスクラップしてとっておいた。それを久しぶりにめくっていた時、その過去のモヤモヤとハッとさせる記事を見つけたので、ここに一部抜粋しておきたい。

ナイジェリア出身の作家、チママンダ・ンゴズイ・アディーチェのエッセイ。

「おばさん、私、ズボンをはいてるから」と私が言うと、チンウェおばさんは驚いた様子で、「とにかくちゃんと座りなさい。いつも女性らしく、ちゃんと座っていなさい」と言った。
この「ちゃんと座る」というのは、やらなければいけない儀式のようなものだ、ということに気づいた。女性の美徳と、女性の恥の。ちゃんとやって、何も疑問を投げかけなければ、大勢に認めてもらうことができる儀式はたくさんあって、ちゃんと座るということもそのひとつなのだ。
女性らしく静かで穏やかであること。わめきたてない。怒らない。頑固にならない。野心をもちすぎない。
どの儀式も、私はやりたくなかった。私はいちばん心地のよい座り方で座りたかった。後になってチンウェおばさんの一生とは、「女性らしさ」という儀式を演じ続けることだったのだと気づいた。

中略

ゲストは歓声を上げて拍手した。部屋のあちこちからは、称賛の声が上がった。チンウェおばさんはその声に包まれ、浸っていた。笑顔のおばさんは輝いていた。「完璧な妻だわ」母の友達が言った。
チンウェおばさんが完璧だとたたえられることの基準が、おばさんが夫のために何をやってきたかということであって、おばさん自身がどういう人であるかということではないことが、私には疑問だった。

中略

その後、母とンゴズイおばさんはチンウェおばさんのことを話しているのが聞こえてきた。ふたりは、おばさんの対応は素晴らしかったとうなずき合っていた。あれが最善の対応よ。喧嘩なんかして、騒ぎを大きくすることはないわ、と。
ある意味ではチンウェおばさんは理想的だっただろう。
チンウェおばさんに起きた出来事は、私が疑問を感じるきっかけになったのではなく、私が感じていた疑問を具現化したのだ。
おばさんの人生が、私がずっと思案していたことを呼び覚ましたのだ。
整然とした対応でなければ称賛されないのはなぜなのか?貶められたのに、なぜおばさんはみなに怒りを見せなかったのか、もし怒りを見せていたら、それが称えられないのはなぜなのか?そのほうが、より人間らしく、より正直であったのに。おばさんは愛しているおじさんには何も聞かなかったが、それが称賛に値することだという。愛するということは与えること。でも愛するということは、何かを手にするということでもあるはずだ。なぜ、おばさんは手に入れなかったのか?おばさんの完璧さが、手に入れようとしないことを前提としているのはなぜなのか?

中略

チンウェおばさんに対する私の気持ちは、段々と凝固していった。今まで私が憧れていたおばさんの所作のすべてが、私を苛立たせるようになった。
これこそがおばさんの最高の素敵なところだと私がそれまで思っていたものは、自身のある部分を隠した女性のために世界が用意した底の浅い称賛への傾倒にしか見えなくなった。

中略

15歳だった私は世間知らずで、若さゆえ妥協が許せなかった。後年、私は再びおばさんに尊敬の念を持つようになり、人生のいろいろな時期に助言を求めるために、おばさんのもとへ足を運んだ。
そして、チンウェおばさんに問題があったのではないことに気づいた。問題は、社会のほうだった。個々の女性が問題なのではなく、女性を萎縮させてしまう世の中の力が問題だったのだ。チンウェおばさんは、富というものはそういう力から女性を守ってくれないことを私に教えてくれた。
教育も美しさもそうだ。自分の女性らしさというものを、その女性らしさと複雑さ、そのままに生きていくんだという決意をおばさんはくれた。
「あなたは女性なのだから」ということが、行動の正当な理由とされることを拒否するために。いちばん自分らしい、そして人間らしい自分でいるために。そして世の中から認めなければ、と自分を歪めたりしないために。

Herper'sbazar/エッセイ『完璧な女性という檻』チママンダ・ンゴズイ・アディーチェ


母も完璧な女性という檻の中にいたのだろうか。年を重ねて、最近は人間味のある言動をちらほらと聞くたびに、どこかほっとして、母は本来、こういう人だったんだ、と気付かされる。檻の中から、そっと抜け出たのだろうか。そもそも、本当にそのような檻は、あったのだろうか。





↓チママンダのエッセイ全文はこちらでお読みいただけます。
興味ある方はぜひ。


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