ずっと父を恥じていた
父親は肉体労働に従事していたので、肌は日に焼けて真っ黒だったし、毎日、汗と土の匂いがした。母が毎日こしらえていた弁当には塩鯖が盛り付けられ、面積の広い白米の真ん中には大きな梅干が鎮座していた。汗をかくので塩分多めだ。
休みになると、決まって畳にゴロリと寝転がって、呑気な顔でテレビを観ている。その姿を見て、こんなつまらない大人になりたくないなあと心底父を見下していた。
時々母は、「お父さんは毎日一生懸命仕事をしてるし、ギャンブルもしないし、真面目で誠実な人だ」と誇らしげに語っていた。
思春期になると、父と一緒に歩きたくなかったし、ある一定の距離を保って、話すことも少なかった。
高校生の時、ある同級生に「あんたの父親、土方なんやろ?」と笑われた。それは明らかに差別されていたし、蔑まれた口調だった。この時代に差別なんてあるのか、と正直驚いた。
私はその時、父の仕事を馬鹿にされて悔しいのと同時に、自分自身も父を蔑んでいることに気づいていたので、なにも言えなかった。
たぶん、一緒に苦笑いしていたと思う。人生で一番醜い笑いだった。
もちろん差別するのは彼女と自分自身の中の問題で、父自体に何の問題もあるはずがないのだが。父はただ毎日を真面目に一生懸命働いて生きていただけだ。
断片的に記憶にある父との思い出は、のどかな漁港で釣りをしたこと、一緒にクイズ番組を見て笑ったこと、内緒で一緒にカブに乗せてもらったこと、夜こたつで寝てしまった私を抱えて、布団に寝かせてくれたこと、膝の上で耳掃除をしてくれたこと、私の作品が展示されると聞いたら一人で観に行ってくれたこと、人生で最も元気がない時に、「海までドライブしよう」と何も言わずにただ寄り添ってくれこと、日常のささやな出来事ばかりだ。
心配性で気が小さいので、時々「朝まで眠れなかった」ともらしたり、大きな背中を小さく縮めている時もあり、父は情けない自分も素直に曝け出せる人だった。感情的に怒ることもあれば、無邪気に笑ったり、等身大のまま、嘘偽りなく、健やかに生きていた。
本人は誠実に生きているが、人生で振りかぶる外的な困難が多くあり過ぎたので(例えば祖父母が新興宗教にハマって借金を負い、夜逃げせざる追えなくなったとか、母が30代で子宮癌を患ったり(奇跡的に74歳の今でも元気に生きている・・!)、兄が10歳で白血病になり、その7年後他界したり、複雑な娘(私)が何かと問題を抱えたり、といった具合に)、そのために、肝の座った強い母がずっと側にいたのか、と納得できる。
色々振り回され、文句を言われ続けながらも、結局祖父母の面倒を最期まで見たのは、父と母だ。しかし、父は破天荒な自分の両親のことを未だに許していない、と察している。
今年墓参りをした際、兄の戒名は刻まれているのに、祖父母のものは刻まれていないことに気づく。父に問うと「まだほってない」と一言だけ。
その一言の奥に、「これからも刻むことはない」という意味も込められていると感じた。
昔母が、「お父さんは、おじいちゃんおばあちゃんに可愛がられなくて、さみしい思いをしたんだ」と言っていたことをふと思い出した。
三兄弟で、上に姉、下に弟がいて、父は真ん中だ。祖父母が宗教にハマったとき、父だけが一才それに加担しなかったことも影響があるのではないか。
それなのに父はなに一つ、道を逸れることもなかったし、毎日一歩一歩を歩き続け、汗水垂らして、働いた。母と家庭菜園をささやかな楽しみにしながら。
美輪明宏の『ヨイトマケの唄』の誕生の元となった、同級生の母親が学校でいじめられている自分の息子に言った言葉を思い出した。
見下して、恥じていたのはずっと私で、
結局父は、ずっと偉かった。