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ハートにヒビが入るほど綺麗な海を探しに行く物語-6-

満ち潮は打ち寄せるたびに高い位置にある乾いた岸壁を海水で濡らしていった。

既に肩ほどまでの高さになった水域の驚異的な上昇の速さに対して、落ち着こう、焦る必要はない、自分は泳げないわけではないし岸壁に捕まるとこさえあれば息継ぎもできる、と自分に言い聞かせた。
しかし体中に虫が走るようなざわざわとした感覚と、透明な海に自分の嫌な汗が染み出ているのを感じ、どんなに気持ちの上で焦燥感を消そうとしても体が不安を感じているのを隠せなかった。
もしサメが実際に襲いかかってきたらどうしよう。
魚をとるのに銛でも持ってきていればよかったのだが、今の自分は先ほどの砂浜で拾った小さなサンゴの石やプラスチックのかけらを持っているばかりで、いくら襲いかかって来たサメが小さなものでもそれらで対抗して勝てる勝算はないだろう。
高校生のとき少しばかりかじった空手も水中では意味をなさないに違いなかった。
ONE PIECEという漫画で登場人物が敵のエイの魚人と水中の戦いに苦戦しているとき、水中でえらに空気を吹き込み撃退した話があったがそんなことを冷静にできる自信もなかった。
と、なれば沖にいるサメがあたしにかじりついてやろうと決断する前に一刻も早く人のいるビーチに逃げ込むしか助かる方法はない。

 いままで生きてきた人生のほとんどを先進国と呼ばれる国の中で過ごした。
人は自然の持つ脅威や危険性、不快な部分を徹底的に取り除くかテリトリーから排除しつくし、ただ残る脅威は同じ人という種の所業だけだった。
食物連鎖の輪からただ一種だけ抜け出し、どんなに獰猛だろうが大きかろうが未知の生物でない限り人は支配することができた。
しかしそんな人という種のはしくれである自分も、群れから外れ自然の中に一人で入っていけば、アイデンテティーも自分の持つ能力も何もかも関係なく、大自然の本来のルールの中のただ一匹のホモ・サピエンスにすぎず、肉塊であった。
人という存在に驕った自分に対し、アフリカの自然はただ厳しいばかりだった。

 サメが来ないかどうか警戒するために水面から顔を出し続け、ひたすらクロールで水を掻いた。
クロールというよりも、犬掻きのような無様な泳ぎ方だったに違いない。
水は妙な引力でもって体を海底に引き込もうとしたし、一向に体は前へと進まなかった。
塩辛い海水が容赦なく目にかかり、口の中に流れ込もうとする。
泳いでいるうちに、水着の短パンの中にしまい込んだサンゴや青い小石が一つ一つ海底に零れ落ちていった。
せっかく見つけた宝物が海にのみ込まれていくのを見て、潜って拾いなおそうかと迷ったが、長い間必死に泳いでいて息も切れているような状態だったので、ここで欲を出したら間違いなく体力を消耗し死んでしまうだろうと思った。
両手にいっぱい集めた楽園の宝物は少しずつ短パンの裾からこぼれおち、ついにすべて海底に沈んで行った。
最後の宝物が失われたとき、自分の身は前より少し軽くなり泳ぎやすくなった。
それでも今まで経験したこともない距離を泳いで体に蓄積した疲労は水をかく手や足を次第に鈍くしていった。
時々岸壁にせり出した貝にしがみついて休憩したが、セイレーンの小さな砂浜の直前に歩いた鋭い貝の水底同様に岸壁の壁は鋭く、手のひらや、腕や足をナイフのように切りつけた。

 焦りが増長していく中で、あたしは芥川龍之介のトロッコを思い出していた。
トロッコの主人公の少年は大人の土工が押すトロッコを自分も押すことを夢見続け、不意にその希望がかなう機会があったとき、土工とともにトロッコを押すことになった。
知らない風景や新しい経験にわくわくした気持で押し続けるが時々住んでいる所より遠い知らない景色に不安になった。いつ土工がそろそろ帰るか、というのを待っていたが、「われはもう帰んな。俺らは今日は向う泊りだから。」といわれ、少年は長い道のりを一人で帰らなければならないことを悟った。

――― 良平は少時無我夢中に線路の側を走り続けた。その内に懐の菓子包みが、邪魔になる事に気がついたから、それを路側へ抛り出す次手に、板草履も其処へ脱ぎ捨ててしまった。
すると薄い足袋の裏へじかに小石が食いこんだが、足だけは遙かに軽くなった。
彼は左に海を感じながら、急な坂路を駈け登った。
時時涙がこみ上げて来ると、自然に顔が歪んで来る。――それは無理に我慢しても、鼻だけは絶えずくうくう鳴った。
 竹藪の側を駈け抜けると、夕焼けのした日金山の空も、もう火照りが消えかかっていた。良平は、いよいよ気が気でなかった。往きと返りと変るせいか、景色の違うのも不安だった。すると今度は着物までも、汗の濡れ通ったのが気になったから、やはり必死に駈け続けたなり、羽織を路側へ脱いで捨てた。
 蜜柑畑へ来る頃には、あたりは暗くなる一方だった。「命さえ助かれば――」良平はそう思いながら、すべってもつまずいても走って行った。

あたしはもう幼いころの自分でもトロッコに出てきた少年でもない、大学生とはいえそれなりにいい年をした大人だった。
それでも涙を流すことこそしなかったが、一人ぼっちで水を掻く不安な心境は彼らと同じものだった。

疲労がピークに達し、恐れていたことが起こった。
右脚に電気のような衝撃が走り、驚きに泳ぐ手足が一瞬止まった瞬間、海はあたしを飲み込んだ。
沈み込んだ海は薄暗いのにもかかわらず、どこまでも遠くに広く広がっていて、命の危険の中にいるにもかかわらず、頭は冷静にその美しさに感銘を受けていた。
海底まで見渡せたその景色は、まるでもう一つの世界がそこにあるようだった。
不思議の国のアリスが、穴にうっかり落ち、穴の底にもう一つの世界を発見したように、水中に広大な岩の荒野が広がり、たくさんの小さな魚たちが自由に泳いでいた。
人の知らないもう一つの世界がそこにあった。
最期に見る景色がこれなら悪くないな、とも思った。
自分の口からこぼれる数多の気泡が水面に昇って行き、水面にのみ込まれていくのが見えた。
自分が沈んでいくのを他人事のように冷静に眺め、諦めにも似た感情が体全体を包んだ時、体の疲労は幾分か和らぎ、力が徐々に抜けていった。
体は意思と反して水面に昇って行った。

空気が鼻腔に流れ込むと同時に我にかえり、岸壁に掴まり、足の痺れがとれるのを待った。
何度か動くのを試すように足首を動かしていると、すぐに痺れが引いていった。
それでも少し疲れたので仰向けになって水に浮かび深呼吸をした。
ダルエスサラームの大学で取っているスイミング&ライフセービングという授業で、最近背泳ぎについての講義があったが、教授に水上でそんなにリラックスできる生徒は見たことがない、と褒められたばかりだった。
しばらく波に揺られていると自分がパニックに陥っていたことに気づき少し目をつぶって落ち着くことにした。
瞼の闇は一時的に自分の置かれている状況を遮断して混乱をなだめていった。
四肢の力は徐々に戻って行き、もう泳いでもよさそうだった。
あたしは空と岸壁の天井を見ながらそのまま水を掻いていった。

天井の岸壁が頭から足の方に流れていくのを見て、自分が順調に前に進んでいることを確認できた。

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