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毒親から逃げられない話 幼稚園編

乱文極まりないnoteにお越しくださいましてありがとうございます。
初めましての方は下記のnoteから読んでいただけたらと思います。

https://note.com/amiko_m/n/naad06cba63b8

ここから本編

幼稚園時代の生活はまだ平和だった。
まだ自分中心の世界にいることができ、他人と自分の違いなんて気にしなかったからだ。

共働きでいない両親に代わり、祖母が幼稚園バスのバス停まで送り迎えをしてくれて、降園後は祖父母宅で過ごしていた。

小学校以前の記憶は断片的だが、辛かったことについての正確さは保証できる。
現在に至るまで何度もフラッシュバックしているからだ。

⑴ 夢

一番強烈な記憶は、母に夢を否定された時のことだ。
幼稚園児ならば、甘い夢を一つや二つ持っていることだろう。
ある日、母に「将来何になりたいの?」と聞かれた。
私はパンやさんと答えた。
近所のパン屋さんは、店員さんが皆優しくて大好きだったからだ。
しかし母は許さなかった。
「パン屋さんは朝早く起きなきゃいけないんだよ。あみ子には無理じゃない?」
確かに早起きが苦手な私は納得してもう一つ夢を言ってみた。
「じゃあおはなやさん」
「お花屋さんは冬に手がかじかんであかぎれができちゃうよ」
「ペットショップ」
「動物は臭いよ」
「おはなしをかくひと」
「アイディアが浮かばなくなったら生活できなくなって大変だよ」
幼稚園児相手にそんなに夢のないことを言うのか、と冷水をかけられたような気分になったのをよく覚えている。
同時に、どんな夢を持ったとしても母に否定されてしまうお金を稼ぐことのできる職業に就かなければいけないのだと頭に刻み込まれた。
この呪いのような記憶が何度も蘇ってきて更新されていく。今もこびりついて離れない。


⑵ おジャ魔女どれみ

幼少時に家でテレビを観た記憶がない
当時はあまり意識した覚えはないが、幼稚園ではいつもみんなの輪に入れず、同じように園庭の隅にいた男の子と二人で遊んでいた。
(今思い返せば、彼は障害のボーダーくらいの子だったのかなと思う。言葉を話すことが難しい様子だった)

テレビを観ない生活を送っていて、初めて違和感を覚えたのは乳児園の元同級生家族と旅行に行った時である。
一つの車に子どもが集められ、道中『おジャ魔女どれみ』を観ていた。
もちろん私はタイトルもキャラクターも知らなかったが、初めて観るアニメに心が躍った。
確か、オレンジの服の子が初めて変身しようとして、メガネが服に引っかかってあたふたするものだった。
旅行先に着いてからはおジャ魔女どれみごっこが始まったが、もちろん私は訳が分からずにいた。

私の世代といえばおジャ魔女やセーラームーンが人気のアニメだったらしいが、私は一度も観たことがなく、キャラクターも知らない。
主題歌はインド人が踊る動画でごく最近知ったレベル。
車の中で観たあの一回きりのおジャ魔女は、今でも懐かしくも苦い思い出である。

⑶ ランドセル


最近も話題になったランドセル選び。
私は自分のランドセルが決まった経緯を覚えている。
両親とデパートへ行き、様々な色のランドセルを目の前にして「あみ子はどれがいい?」と母に聞かれた。
「ピンクか水色がいい」
パステルカラーが好きだった私は迷わずそう言った。
しかし母は頭を横に振った。
「六年生になったら飽きるからこれにしなさい」
買ったのはワインレッドの半かぶせのものだった。
先日調べたところ、どうやらブランドはハナエモリらしい。
検索してもらうとわかると思うが、金属部分も黒くコーティングされていて、かなり渋いデザイン。
パステルカラーの正反対に位置している。
しかも半かぶせ。
買った時も嫌だったが、小学校に上がってからも嫌だった。
これは小学生時代の話になってしまうが、当時は後ろからこっそり忍び寄り、ランドセルの留め金を外す遊びが流行っていた。
しかし私のランドセルでは、外されるとすぐに気がついてしまう。
つまらないと言われ、自分のランドセルを好きになれなかった。



最近家の掃除をしていて、昔の写真がたくさん出てきた。
年齢が上がるにつれて目が死んでいくのがわかるが、幼稚園くらいの私はまだ笑顔があった。
口を半分開けてぽーっとしているか、目をキラキラと輝かせて笑っているかのどちらかで、まだ人生が楽しかったことがうかがえる。

今回はここまで。

書いていてまだ平和だと思う。
厭世観なんてかけらもなかった時代の話。
でもずっと引きずっている。くだらないことだと笑われそうだけど。

次回は小学生編。
超長くなりそうだから3回くらいに分けようかな。

(追記)
3回どころか10回くらいやりそうな小学校編第一回はこちら↓


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