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毒親から逃げられない話 小学校編④

「生理前はイライラしてすぐ口が悪くなって自己嫌悪に陥る」と勇気を出して母に言ったら「気のせいじゃない? めんどくさいわね。そんなんじゃ働けないわよ」と言われて、ますます厭世観が高まった。
どうもお久しぶりです。

初めましての方は初回をまず読んでから戻ってきてください。

https://note.com/amiko_m/n/naad06cba63b8


(前回↓)

https://note.com/amiko_m/n/n4ce78394c6b1


今日は趣向を変えて、小学生時代の趣味について語ろうと思う。
趣味時々毒親という感じ。

私の小学生の頃の趣味は読書・お絵かき・大河ドラマの三本柱だった。
漫画・アニメ・ゲームは一切禁止だったから、こうなることは当然だろう。
お絵かきについてはコメントすることはないので、読書と大河ドラマについて書こう。


⑴ 読書

私は本の世界に入るのが好きだった。
現実が辛かったし、好きな時にに楽しめる唯一の娯楽だったからだ。

ただし、どんな本でも読んでいいかというとそうではなく、青い鳥文庫系統(『黒魔女さんが通る!』『若おかみは小学生!』など)は買ってもらえなかったため、すべて立ち読みをしていた。
本屋さんごめんなさい。
小学6年生の時に畠中恵の『しゃばけ』を私に読ませた父は、相当母に怒られたらしい。

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何を読んでいたかというと、岩波少年文庫系統だった。
ジブリで映画化もされた『床下の小人たち』シリーズや、今年実写映画になった『ドリトル先生』シリーズ、映画化されたものの大人の事情で映画化打ち切りとなった『ナルニア国物語』などなど。

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特に好きだったのは、アストリッド・リンドグレーンの作品だった。
『長くつ下のピッピ』で有名な作家だが、私の一番好きな作品は『はるかな国の兄弟』というもの。
愛し合う兄弟が死後の世界で大冒険をするという話だった。
死を扱ったものであるから好きだったのではなく、物語全体を覆う明るくも物悲しい雰囲気に惹かれて、繰り返し読んでいた。
(今読み返してみると、私が腐女子になってしまったのはこの作品が根底にあるかもしれないと感じてしまう)

リンドグレーンの文章からは、子どもに対する優しい眼差しが読み取れて心地よかった。
子どもの心に寄り添っていて、冒険譚は何度読んでも心が躍った。
主人公の子どもたちは兄弟がいて、動物たちがいて、美味しいご飯が食べられて、なんといっても子どもたちを全身で愛する両親がいて……
彼女が描く家族は私の理想だった。

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リンドグレーンの本以外にも、愛読書が二冊あった。
ビアンカ・ピッツォルノの『ポリッセーナの冒険』とE.L.カニグズバーグの『クローディアの秘密』である。

小学生の頃の私は、なんとか家出をして家族と離れられないものだろうかと考えていた。
そんな気持ちが起こる時に開くのがこの二冊だった。

『ポリッセーナの冒険』は、親に叱られるたびに「私は拾い子で本当のお父さんお母さんは王様とお妃様なのだ」と空想を膨らませる女の子が、家を飛び出して自分の出自を探るために旅をするものだった。
私もこの主人公と同じ思考回路をしていて、友達ができたかのように嬉しかった。
きつく叱る親を見て自分が実の娘ではないのではないかと思ってしまうことへの罪悪感も、この本を読むと薄らいだ。
ただ、結末が好きじゃなかったけれど。

この本を読んで得た知識が一つあった。
実の娘の場合は戸籍の続柄の欄に「長女」と書かれているのだということだった。
何かの手続きで私の戸籍を見た際に、確認したがそこには「長女」と書かれていて、がっかりしたことは言うまでもない。

『クローディアの秘密』は、優等生でいることに飽き飽きしたクローディアが弟ともに家出をし、博物館で寝泊りをするというもの。
こちらの場合は、『ポリッセーナの冒険』よりも現実的な話で、いつ大人たちにバレるのかというハラハラを楽しむものだった。

二つに共通するのは、子どもたちが家に戻った時の大人たちの対応だった。
家出したことを叱りつけるのではなく、戻ってきたことを喜び抱きしめてくれる。
最高の愛情表現だ。(キリスト教の迷子になった子羊を連想させる。知らんけど)
じゃあもし実際に私が家出したら、と想像してみると、母がそんなことをするはずがないとすぐ結論づけられた。
私の母なら、まず怒鳴りつけ一週間ぐらい不機嫌に過ごすだろう。
そう考えるとやっぱり家出なんてできなかった。

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⑵ 大河ドラマ

私が大河ドラマを観始めたのは『新選組!』からである。
三谷幸喜脚本、香取慎吾主演の今思い返せばかなり豪華なキャスティングの作品だった。
最初は怖くて親の肩越しに観ていたが、だんだんと面白さがわかるようになっていった。

しかし私の中でもっと大きな存在が翌年の『義経』だった。
主演は滝沢秀明で、那須与一役で今井翼も友情出演していた。
ジャニーズ事務所の存在を知らずに観ていたから、タキツバの文脈なんて知らなかったけれど。
(今年の『麒麟がくる』で今井翼がやったアクションシーンは『義経』の滝沢秀明の八双飛びオマージュだと主張している)
義経様は画面の中で(時には文字通り)きらきらしていて儚くて強くて美しかった。
幼い頃に親と離れて暮らす義経様の生涯も、親が本当の親だとは思えていなかった私にとって心打つものだった。

小学生の私は「ワイヤーアクション」というものを知らなかったから、滝沢秀明が実際に五条大橋や船と船の間を飛んでいるのだと信じこみ、神様のような人だと思った。
すぐに滝沢秀明=義経様(実際には鞍馬寺修行時代の名前である遮那王様という名で呼んでいた)=神という構図が私の中で出来上がり、辛いことが起こると「遮那王様遮那王様助けてください」と必死にお祈りをしていた。
今では神様と呼ぶほどの信仰対象ではないけれど、当時の私にとっては救い主だったし、10年以上経っても様をつけずに呼ぶことができない。
新興宗教ってこういうところから生まれるのだと思う。

完全に大河ドラマにはまった私を見て、母はいい顔をしなかった。
大河に関する話をしようとすると顔をしかめ「暇人ね」「くだらないわ」「それよりもっとやることがあるでしょう」と言った。
大河ドラマを観るようになったのは、母が『新選組!』をつけたからであるし、共通の話題を見つけられた喜びもあって話しているのにと、不満があった。
これが好きなものを好きと言えない経験の始まりである。

毎年出版される大河ドラマのガイドブックが私の憧れの一つだったけれど、もちろん買ってはくれなかった。
(私には特に響かなかった『篤姫』とまあまあ好きくらいの評価だった『龍馬伝』のみなぜか買ってくれたけれど意味がわからない)

以後、受験の年付近の3年間を除いて私の人生は大河ドラマと共にあった。


⑶ 神様について

『義経』以降、滝沢秀明そのものが神々しく感じられた。
彼のアイドルとしての輝きに無意識に惹かれていたのかもしれない。
前述した通り、ジャニーズ事務所のジャの字も知らない私はタッキー&翼は全く知らなかったし、そもそも前年の『新選組!』の香取慎吾も当時ジャニーズだったことを知らなかった。
音楽番組を観せてもらえなかったのだから当然といえば当然だ。

次に滝沢秀明をテレビで観たのは、TBSで2006年に放送された『里見八犬伝』というドラマである。
歴史の授業で必ず登場する滝沢(曲亭)馬琴の『南総里見八犬伝』をドラマ化したものだった。
滝沢秀明は主役の犬塚信乃を演じていた。
このドラマでも彼はきらきらしていて、ますます好きになった。
祖父に頼み込んで録画してもらいDVDに残してあるが、小学校卒業まで長期休みのたびに観ていたほどである。

さて、この話は犬を名字に持ち、牡丹模様のアザが体のどこかにあり、文字が浮かぶ水晶の数珠の一粒を持つ、八犬士と呼ばれる8人の若者たちが、現在の千葉を治める里見家を再興するものである。
男の娘がいたり、ヒロインが記憶喪失になったり(原作では転生している)、悪役が蜘蛛に化けたりと、すごいストーリーであった。
このドラマのせいで私は蜘蛛が嫌いだし、家の中にいても殺せない。

八犬士は前述したように仁義礼智忠信孝悌のどれかの文字が浮かぶ水晶の玉を持っているが、犬塚信乃の玉は孝である。
これがいけなかった。
そもそも仁義礼智忠信孝悌というのは、論語から発生した八徳目という概念であって、『南総里見八犬伝』が儒教の色が強い『水滸伝』をベースにしていると考えるとまあこれは妥当である。
『南総里見八犬伝』では、八犬士それぞれが持つ玉の文字にあったキャラクター設定になっている。
例えば、兄弟の仲が良いことを表す悌を持つ犬田小文吾は妹想いの性格をしているなどだ。

犬塚信乃は孝のキャラクター、つまり親へ尽くすことの化身であった。
親に不信感を抱いていた私とは非常に相性が悪い。
しかし神様同然の滝沢秀明が演じたのだから、私もそれに倣わなければと思った。
理想と現実の差は大きく、理想に近づけない自分を責めることしかできなかった。

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学校で滝沢秀明が好きだと言うと、「ああ、タッキーね」とみんなが口にする。
なんでそんなに軽々しく呼べるのかと疑問に感じていたが、そっちの方が主流なのは言うまでもない。

ある年の運動会。
ダンスの練習をしている時に、友人が教えてくれた。
「この曲、あみ子が好きなタッキーの歌だよ」
驚いて、よく聞いてみると確かに神様の声がした。
曲は『Venus』『Ho!サマー』の二曲。
今考えてみると、教師団の中に同志がいたのかもしれない。
しかし小学生の私は、運命の巡り合わせとばかりに苦手なダンスを必死に練習した。

これが神様、滝沢秀明との思い出である。
近年、芸能界を引退し、文字通り雲の上の人になってしまった。
もう姿を見られないという悲しさももちろんあるが、人前に出ない方が神様としてのありがたさを増長させて良いのではないかと思っている。


好きなことについて語るのはやっぱり楽しい。好きなことは好きのままでいたいね。

次回は親との関係性がよりわかるエピソードをば。

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