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【掌編小説】黄泉

 そこは、ただただ暗かった。左右を見ると畑がひろがっているらしかった。前方には森林がそびえたっているらしかった。畑と空、木々と空の境界があいまいで、灯りという灯りは月灯りしかなかった。
 生温かい微風が横切った。その微風が心細さを増長させた。
 私は歩いた。地面が確かにあるものと信じて。一歩々々たしかに歩を進めるものの景色は変わらず、本当に進んでいるのか自信がなかった。
 私はどこに向かっているのだろう。分からない。でも立ちすくんでいるよりは歩を進めることの方が心細さを紛らわせることができた。
 気づくと私は泣いていた。涙が両目からこぼれていた。この涙は心細いからではないことはたしかだった。でもなぜ泣いているのかわからなかった。
 涙を拭くために止まった。止まるとまた生温かい微風が吹いた。ズボンのポケットを探るとハンカチが入っていた。ハンカチで涙を拭いているとなんだか本当に自分が悲しい気持ちでいる気がしてきた。悲しさの原因を頭の中で探る。
 突然、後ろから左肩を叩かれた。振り返ると大きな外套を羽織りパナマ帽をかぶった男性が立っていた。男性は下を向いていたため顔は詳しくわからなかった。
「向こうに宿があります。さあ行きましょう」
 そう彼は言い、前方を指さした。指さした方を見ると宿らしき二階建ての建物があり、その建物の窓からまぶしいほどの灯りが漏れていた。いつの間にあんな建物が現れたのか不思議だった。
 私は彼の後に続いた。もう涙は乾いていた。
「本当に昨日のことのように感じます」
 彼は前を向きながら言った。何のことを言っているのかわからなかった。彼の背中は広いがどこか頼りなく、私を不安な気持ちにさせた。
 どれくらい歩いただろう。気がつくと宿の前に着いていた。宿に入ると、思っていたより暗く、電球が一つさびしげに天井からぶら下がっていた。右側奥に障子で閉ざされた部屋があり、その前に受付と思われる机があった。そして、左側に二階へ続く階段があり、他には何もなかった。
 突然、右奥の部屋の障子の戸が開き、一人の女性が出てきた。二十歳くらいと思わるその女性は、黒のコーデュロイのズボンに無地のグレーのパーカーを着ていて、この建物から浮いていた。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
「やあ。とうとう連れてきたよ」
「ありがとうございます。ようやくお会いできて嬉しいです」
 彼女の声は少し低いがやさしく、魅力的な声だった。彼女は、それでは、と言って私を二階へ案内した。彼女が階段をのぼる後に続きながら後ろを振り返ると、ここまで連れてきてくれた彼は私に微笑んだ。そこでようやく彼の顔を詳しく認識した。その微笑みはやさしいものであるはずなのに、怖さを感じずにはいられない、なんとも奇妙な顔をしていた。頬の肉はほとんどなく頬骨が突出していて、鼻は大きくつぶれていて、目は飛び出てしまうんではないかと思われるほどであった。彼は手を胸の位置にあげ、手のひらをこちらに向け、御機嫌よう、と言いながら手を二回前後させ、宿の外へと出ていった。
 階段をのぼりに二階にでると、一階とは打って変わりとても明るかった。二階は廊下の右側にトイレと思われる部屋のドアとその奥にもう一つドアがあるだけだった。
 その奥にあるドアの前まで行き、こちらの部屋になります、と彼女は言いドアを開けた。その部屋は6畳ほどの畳の部屋一間しかなく、正方形の机と部屋の奥側に座布団がそれぞれ一つあるだけだった。
「そちらの座布団にお掛けになり少しお待ちください」
 彼女はそう言って部屋を出て行った。彼女に言われた通り、座布団に正座をして座った。
 部屋はしんとしていて、ただただ明るかった。窓の方を見ると、やはり暗いがおそらく満月であろう月が見えた。月がみえることだけが私の心を安定させた。
 これからどうなるのか、わからなく不安でしかたがなかったが、心のどこかに高揚した気持ちがあることも確かだった。
 突然、失礼いたします、と彼女の声が聞こえ、彼女が部屋に入ってきた。彼女はなぜか全裸でドアの所に立っていた。
「どうですか?」
 純粋な目をして私に訊いてきた。
 まず、豊満な乳房に目がいった。先程の服を着た状態では気づかなかった豊満さだ。そして毛が茂っている陰部に目がいき、最後に彼女の顔を見た。きれいなからだ、そして美しい顔だと思った。
 彼女は依然として凛とした顔で乳房も陰部も隠さずすっと立ち、恥じらうような表情は全くみせなかった。
「どうですか?」
「…はぁ」
「あなたに会いたかったんです。あなたはどうですか?」
「…あなたは誰ですか?」
「ふふふ」
 私の感情という感情がすべて恐怖に成り変わった。私は立ち上がりドアの方に駆け寄り彼女に、どいてください、と言った。
「きっと長く生きすぎたんだわ」
 彼女はそう言いどいてくれた。私は一目散に階段を降り、そして外に出た。
 外はなぜか繫華街のようにとてもにぎわっていた。先程私が来たときとは全く別世界になっていた。私はとにかく人を搔き分け走った。走っても走っても人はたくさんいて出口が見えなかった。
 通り過ぎる人達の声色はとても楽しそうなものばかりで、私の心を緊張させるなにかが宿っていた。
 走り疲れて息を整えるために立ち止まり、手を両膝についた。そのとき、後ろから腕をつかまれた。振り返ると、さっきの男性だった。
「どうしました?」
 私はその言葉に答える言葉を見つけることができなかった。黙ったまま彼の奇妙な顔をみつめた。
「もしかして逃げたのですか?」
 そう彼が言うと周りの人々全員が私の方に目をやった。その多くの視線に私の胸はきゅっとした。まわりを見渡すと、人々は皆にやにやした顔をして、私の言葉を待っていた。
「…はい」
 そう答えると、まわりの人々が一斉に笑い出した。皆、おかしくってしょうがないというような感じで笑っている。だが、私の肩に手を置いている彼だけはまったく笑っていなかった。
「戻るぞ」
 そう彼が言い、彼は左の方を向いた。彼の目線を追いかけると不思議とすぐ傍に先ほどの宿が両側に空き地挟んでたっていた。彼に引っ張られるがまま、人混みを搔き分けて宿に再び入り、二階の先ほどの部屋に直行した。部屋に入ると私は彼に乱暴に部屋の机の上に投げつけられた。さっきの微笑みとは違い冷淡な顔をしていて目からは狂気を感じた。このような表情をするために頬骨や鼻などパーツがこんなヘンテコな形をしているのだと感じた。
「なんてことをしたんだ!」
「…私はどうすればいいんですか?」
「…とにかくこの部屋にいろ」
 そう男は言って部屋を出て行った。私は呆然と机の上に倒れこんでいた。
 私は机の上に倒れ込んだまま目を瞑った。どうしてこんな状況になっているかを考える。が、まず暗闇に立っていた以前のことがどうしても思い出せない。しかしよく考えると、暗闇ではあるが、そこは以前来たことがある場所な気がした。
 意外にもこうして机の上に目を瞑っているのが心地よかった。私を机の上に叩きつけた男にも腹はまったく立っていなかった。
 いつの間にか私は机の上に倒れ込んだまま眠りについていた。

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