【詩の雑感】 瀧口修造「レダ」
今回の「詩の雑感」で取り上げる詩は瀧口修造「レダ」(1937)である。
タイトルの「レダ」は、ギリシア神話で、スパルタ王テュンダレオスの妻「レダ」のことを指していると思われる。ギリシア神話に全く詳しくない私は、ただただ詩に書かれていることから感じたことを書く。
最初に「突風は貝殻をコップのように空虚にする」ときて、読者に理解の出鼻をくじく。「貝殻」が登場するということは舞台は海辺か。「貝殻」が「コップのように空虚」になるとはどういうことか。わからない。が、このセンテンスからはどこかモノトーンな印象を受ける。
次に「燈火は消された!」とくる。このセンテンスで急に灯ったあたたかな「燈火」が即座に消えて、暗くて不穏な静けさがその場にひろがる。
そして「月の下には禁獵区が白い扇のように横たわっている」とくる。暗闇のなか見上げると月があり、その下には月明かりで「禁猟区」がみえる。それが「白い扇のように横たわっている」という。どういうことか。さっぱりわからない。
わからないところは置いといてとりあえず次に。その後「彼女の留針は休息している」とくる。このセンテンスから、いつも裁縫を行なっている「彼女」は手を休め「休息している」情景が浮かぶ。そのような情景をこのように表わすのは素敵である。だが、ここでこのセンテンスを置いたのはなぜか。
さらに「ひとりあるきは薔薇の匂いがする」とくる。このセンテンスも不思議なセンテンスである。歩いているときに薔薇の匂いがする、と言う意味ではおそらくない。また「ひとりあるき」でなければいけないのはどういう意図があるのか。「薔薇」の花言葉は美、愛である。孤独な「ひとりあるき」から淡い妖艶な美を感じる、ということなら少し合点がいく。が、どちらにせよ、美を醸し出す美しいセンテンスであることには間違いない。
そして最後に「レダは吊り下がっている!」ときて、読者は一瞬戸惑いを隠せない。ギリシア神話のスパルタ王テュンダレオスの妻「レダ」が「吊り下がっている」とはどういうことか。ギリシア神話に造詣のない私は、ギリシア神話にそのような場面があるのか知らない。「レダは吊り下がっている!」というセンテンスは私の頭の上にひたすら漂い、悩ませ続ける。
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