[詩の雑感] 中原中也「春の日の夕暮」
2回目となる「詩の雑感」。今回は中原中也「春の日の夕暮」について雑感を述べたいと思う。
「トタンがセンベイ食べて」というセンテンスからこの詩は始まり、読者は面を食らう。「トタンがセンベイ」を食べるはずはないのだから。このセンテンスにはどこか哀愁を感じる。「トタン」屋根の家に住む貧しい人が「センベイ」を食べているような情景が浮かぶ。確かに「穏か」である。
次に「アンダースローされた灰が蒼ざめて」というセンテンスがくる。情景を思い浮かべると奇妙ではあるが秀逸である。「アンダースロー」には何かしらの寓意があるのか。「灰が蒼ざめ」るとはどういう意味か。わからない。そんな情景において「春の日の夕暮は静かです」と言う。さらにわからなさを増幅させる。が、さまざまな言葉がコラージュされたようで読者の血を騒がせる。
「吁!案山子はないか―あるまい / 馬は嘶くか―嘶きもしまい」と作者は興奮し、落胆する。「案山子」は秋の季語である通り、秋によく見られる。作者は秋を探しているのだろうか。そして、春は「馬」の発情期である。発情期に「馬」はよく嘶くのであろう。作者は「馬」の「嘶き」を聞くことができないため、作者には春も訪れてくれない。
「ただただ月の光のヌメランとするまゝに / 従順なのは 春の日の夕暮か」と次にくる。「春の日の夕暮」は作者には振り向いてくれず、なめらかな「月の光」に「従順」なのである。
「ポトホトと野の中に伽藍は紅く / 荷馬車の車輪 油を失ひ / 私が歴史的現在に物云えば / 嘲る嘲る 空と山とが」と一つの段落で一文を述べる。倒置法で最後に「空と山とが」と置くのが秀逸である。
また、先ほどの段落の「ヌメラン」や、「ポトホト」といった言葉に遊び心を感じる。
「伽藍は紅く」て「荷馬車の車輪が油を失」っている状況をみて、作者は時の移ろいを感じずにはいられないが、その感情を「空と山」に嘲笑されているように感じる。どうしても浮足立ってしまう「春の日の夕暮」に、作者は恥ずかしい想いをさせられる。
「瓦が一枚 はぐれました」というセンテンスは、松尾芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」や尾崎放哉の「沈黙の池に亀一つ浮き上る」という句を連想させる。どれも沈黙さを強調するものであるが「瓦が一枚 はぐれました」は上に挙げた2つの句と比べて、春の静かさや暖かさに放心し「瓦が一枚」落ちたことに驚くような、何ともいえないおかしみがある。
「これから春の日の夕暮は / 無言ながら 前進します / 自らの 静脈管の中へです」というセンテンスでこの詩は終わる。このセンテンスは、「春の日の夕暮」が静かに夜へ向かっていくことを言っていると、私は解釈する。そうしたとき、静かに時が流れることを「無言ながら 前進します」と言ったり、夜のことを「自らの静脈管の中」と表現したりすることに、私はただただ感嘆させられるばかりである。
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