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75年目の朝に

今日は横浜大空襲から、ちょうど75年目だ。

先程Wikipediaを見て知ったのだが、原爆の候補地から外された翌日に、横浜大空襲は行われたようだ。

母と母の兄・姉は小学校に入学していたので、秋田県の横手市に縁故疎開していたから、助かった。

しかし、小学校入学前の母の下の兄弟と母のお母さん(わたしの祖母)が犠牲になった。

母のお父さん(わたしの祖父)も自宅にいたのだが、荷物を持ち出すために後から追っかけることになり、1人だけ助かる。

しかし、それを気に病んで、戦後は病気がちになり、わたしが生まれた時には既に亡くなっていた。

避難しようと向かったのは、自宅から高台に向かった黄金町の久保山墓地のあたりだそう。

実家の墓が久保山墓地にあったので、小さい時は何回も墓参りに行ってたけれど、その話を聞いたのは10年前くらいの話。

しかし、その前に、遺族会が5月29日に開催する慰霊祭には、母に促されて参加したことがある。

亡くなったといわれているが遺体は見つからなかったので、弟はひょっこりどこかで生き延びているような気がする、と母が数年前に語っていた。

母のお父さんは再婚し、新しいお母さんができたが、連れ子と後から生まれた実の子とは、待遇に差があったらしい。

中学校には赤ちゃんを背負って通ったり、小さい時から水汲みに行かされたり、隣の家に風呂に入りに行った時に義母だけ入って自分たちは入れてもらえなかったり、かなり苦労をしたようだ。

亡き父は真鶴にいたので空襲とは無縁だったようだが、戦後すぐには父の母(わたしの祖母)と一緒に着物を持ち、父の父(わたしの祖父。わたしが生まれた時には亡くなっていた)の実家がある山形県まで混雑した電車に乗って、野菜や米などを物々交換に行ったそう。

母の叔父さん夫婦は満州に行き、戦後に帰国し、叔父さんは横浜松坂屋で働いた。

戦争の被害といえば死傷者の数が挙げられることが多いけれど、戦争中だけでなく、戦争から帰った後も、その影響力は計り知れない。

黄金町の駅の反対側が長らく風俗街だったのも、おそらく戦争の影響で、そこで働かないと食べていけない人がいたからだろう。

黒澤明監督の「天国と地獄」という映画を見ると、このあたりの昔のイメージがわかる。

黄金町は、横浜大空襲で最も被害が大きかった場所の1つだ。

現在では、黄金町バザールに生まれ変わったため雰囲気が良くなり、古本屋などセンスの良い店も揃っている。

横浜で、今でも空襲の痕跡を残している場所として有名なのは、京浜急行線の横浜駅と戸部駅間にある旧平沼駅址だ。

わたしは娘だったので、母から子供時代の苦労話をいろいろ聞かされた。

それがうっとうしいと思うこともあったけれど、結果的に、戦争は嫌なものだ、やってはいけない、と実感として知っている。

孫にとって良いおじいさんやおばあさんでありたい人は、そういう話を孫世代にしたがらないかもしれない。

もちろん、日本は自ら戦争を始めたことになっているし、戦争に負けたのだし、みんなが苦労したのだからそういう話をするな、という人もいるかもしれない。

しかし、わたしはこういった話は実体験として残していかないといけないと思う。

おそらく、戦争はゲームや戦争映画のように勇敢なものでない、ということを伝えたいのかもしれない。

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