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今ある事実に感謝をして、それを幸せと呼んでいたい。

20240401.

金曜日、3年間働いた会社の
最終出勤日でした。

なんだか、すごく
大きな愛を感じて。
じんわり、幸せな気持ちになりました。

3年間。大切な、毎日だった。

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華やかさで美しいのではない。
今を生きる、ありのままの美しさが
この本にはありました。

ハン・ジョンウォン『詩と散策』

自分が好きな音楽をかけると、やがて向かいの部屋でもおなじ音楽をかける、と。彼はその人のことが気になったが、知らずにいたほうがいいと結論を下す。歌を返し合う存在がいることを知っただけで十分だと思ったから。

永遠の中の一日

私の考えや生き方を、受け止めてくれる人がいると知ったあの日から。私の心を見てくれる人がいると知ったあの日から。
そういう存在がいることを、知っただけで十分だと思うようになったし、なんて幸せなんだろうと、感じるようになった。

ここに行きたいね。とか。
これを一緒に食べたいね。とか。
たとえ実現しなかったとしても、
実現できなかったとしても、
そう思ってくれて、私に伝えてくれた、
その事実が。
それだけで、十分だと思えるようになった。

そんな存在が、いてくれる。
私に対して、そう感じてくれている。
それだけで、それこそが、何よりも大切で、
幸せなことだと気づけたから。

旅が目的地に行くことよりも、目的地に行くまでの過程を大切にしているように、人との関係性も、その人と最終的に何をしたかよりも、共に何を感じて、何を考え、何を伝え合ったか。それが大切だと思うようになったから。

というのもあるし、欲張ると、返ってくるものが小さかったときに苦しいものだから、欲張りすぎず、求めすぎず。今ある事実に感謝をして、それを幸せと呼んでいたい。

だけどきっと、いつか。
いつかの、やりたいね。を実現するために、
私たちは生きていくような気がする。

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これは最近、感じたことなのだけれど。

生きる希望。とか
そんな大層なものは無くてもいいと思う。
と感じていて。

こんなことがあるなら。
こんなものがあるなら。
こんな人がいるなら。
もう少し、生きてみてもいいかも。
もう少し、生きてみるのも悪くない。

なんて。
そんなふうに思えたら、十分なのではないだろうか。生きる理由なんて、そのくらいで、いいのではないかな、と。

キラキラした希望は、あると良いかもしれないけれど、ときに苦しくなってしまうものだから。
そのくらいが、私は生きやすい。

✳︎

ただ目立たない暮らしがしたかった。
日々詩を書き、庭の手入れをし、生姜パンを上手に焼いたエミリー。自分らしく生きるために、誰かを真似て生きることを拒んだエミリー。

みんなきれいなのに、私だけカンガルー

私もいつからか、目立たないように生きていきたいと思うようになった。し、今もそう思っている。それはなんかこう、みんなに埋もれて。とかではなくて、静かに、自分のペースで生きていきたい。に近い感覚。

丁寧な暮らし。という言葉が、私は少し苦手で。
私がしている暮らしを、時折、丁寧な暮らしをしてるんだね。と言ってくれる人がいる。
なんだか、違う。
そういうことではないのだけどなあ。
と、心で思う。

丁寧な暮らし、という。私からするときれいなその言葉に、言葉だけが独り歩きしているその感覚に、違和感を覚える。
丁寧な暮らしをしているのではなくて、ただ、今この瞬間を味わって生きている、それだけ。
きれいに生きていこうと思っているわけではなくて、たとえきれいに暮らせなくて、暮らすことが下手でも、自分自身の生きやすい生き方を見つけていきたい。だから、目立たなくていい。静かに、心を無くさないように、暮らしていきたい。

✳︎

馬も人もとっくに去ってしまったのに、彼らがいたことを証明する音が残っている。目を閉じその光景を想像するだけで、涙が出そうになった。

寒い季節の始まりを信じてみよう

ある人と電話をしていたとき、
その人は私に詩を読んでくれた。

なんとも不思議だった。
声の音と、息のあたたかさと、言葉の輪郭を、
何日も経った今も、はっきりと覚えているから。
そっと、音が心に残っているから。

今でもその人の声を、覚えてる。
いつもの会話よりも、ずっと。
あたたかさが、心に残ってくれている。

その人がいたことを証明する音が、声が、
頭と心に、残っている。
今、その人がいなくとも、
その人は確かに、ここにいる。

きっとそんな些細な瞬間に、
これからも救われるのだろうなと、思う。
声という生きた証に、
これからも救われるのだろうなと、そう思う。

目を閉じて、思い出す度
その人のあたたかさに、触れられるから。

✳︎

私たちは互いにプライバシーに触れることは最後までなかったが、そんなことはどうでもよく、そっと自分たちのそばを空けてやった。
私たちは片隅で生きる人間だ。片隅の声は消えかかった火種のように危ういので、お互い声をかけ合って火を燃やしていかなければならないと思った。
だから、性別も世代も違ったけれど、消極的なつき合いをし別れのあいさつもしなかったけれど、私はこれも友情だったのではないかと思いたい。

果物がまあるいのは

何度か、このnoteでも書いているかもしれないけれど、相手のことを深く知らなくても、私は良いと思っている。

互いのことを深く知らなくても、
あなたのことを、想ってるよ。なんて、
言葉にしなくても、自分のそばを空けてやって、いつでも受け止められるように。
あなたの味方だよ。って。
その心さえ、あれば。
いいのだと思っている。

いつも繋がっていなくていい。何かあったときにでも、助けを求めたり。反対に、助けを求められたときに、そっと、手を差し伸べられたら。そっと、包み込んであげられたら。そのくらいの距離感で、いいのだと思う。

一見わかりにくそうな、見えない繋がりでも、それを友情と呼んでいたい。深く長く、静かに繋がっている、実はとっても大切な、友情なのだと思う。

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寝ぼけたお日さまが
私を起こしに1番にやってきてくれる
このお部屋が大好きだった。

このお部屋で過ごす朝は
いつも特別だった。

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この場所も、あと少し。

大好きなもの
大好きな空間
大好きな人と離れるのは

やっぱり、寂しい。





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