ぐらしあすの「自分の中のもう一人の自分」

人格が二つあるというわけではない。
でも、ぐらしあす(リアル)が何かを考えたり、何かをしようとするときに、ぐらしあす(ジャッジマン)が現れることが多い。

というのも、元をたどれば、幼少期における父親からの「男たるものこうあるべき」という思想が刷り込まれていたからだと思う。

ぐらしあすが二人いると、読んでくださる方にとってややこしいとおもうので、以下、ぐらしあすリアルA(リアル)とぐらしあすB(ジャッジマン)に分ける。

例えば、
A:この仕事は今日中にやっておいた方がいいけど面倒くさいな
B:何を言ってるんだ、そんなことを言うひまがあったらさっさとやってしまえ

A:会議の途中で、議題に沿ってこの発言をしたら格好いいな
B:格好いいとかの問題じゃなくて、素直に感じたことを言え

A:よし、明日からたばこをやめよう
B:できもしないことを言うな。やめるなら今日からやめろ

というように、常にぐらしあすAのこころの中には、審判を下すぐらしあすBがいるのである。

後で、自分の行動や発言を振り返って、「あの時はこういえばよかったな」とか「あの時はこういう行動をとった方がよかったな」とか認知の修正が出来れば一番いいと思う。

でも、その時々で、ぐらしあすBが現れたら、しんどいしとても疲れる。

総合判断なんてものは、結果的によかったり、あまりよくなかったりするものだから、「その時、自分はこれだ」というものがあればそれを主張すればいい。

理屈ではそう思っている。

しょっちゅうぐらしあすBが現れるもんだから、HSPのぐらしあすAは、都度悔やんだり嘆いたりするが、振り返りつつも「あんなことを言ったけど、あの場面では仕方がなかった。くよくよしないでおこう」とできるだけ思うように心がけている。
が、ぐらしあすBは去って行ってくれないので、それが厄介だ。

ディプレッションまっさかり。ぐらしあすの「こころの声」を中心に、自分が体験したことや、時折感じる何のエビデンスもない、主観の記事も徒然に書いていきたいとおもいます。よろしくおねがいします。