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かつて3,000円とは大金ではなかったか

いくらか前に、とあるカップリングのことが好きになった。当時私以外にそのカップリングで二次創作をする方はおらず、このままひとりで死ぬのは嫌だと、今思えば不思議な焦燥感からひとり推しカプの投稿数を育てていった。

数ヶ月後、私以外にも推しカプのお話を書く方が現れて平穏は訪れたかのように思えた。しかし人の欲は深く、ひとつ満たされれば次が欲しくなる。当時は今よりも公式供給が不安定だったので、私が書くもの人様が書くものを合わせても読み足りなくなってしまったのだ。
その時の私はとにかく推しカプがおいしいものを食べる姿が見たかったので、知人の字書きの方にお寿司を食べるカップリングを書いて欲しいと依頼した。
書いて頂くからには書きやすいよう体験や取材も必要だと思ったので、私含めて三人で回らないお寿司をちょっといいお酒も添えて頂いた。なにせカウンターお寿司デビュー戦だったので緊張こそあったけれど、出るもの出るもの全部が舌触り良く、味や食感を楽しんでいる間に気が付けば魔法のようにすとんとお腹に入っている。お酒もするすると入っていって、ははあこれが文字で見ていたするすると身体に染み込むお酒なのかとカルチャーショックのようなものを受けていた。不思議な時間だった。
お寿司は取材なので、私は取材費としてお寿司とお酒三人分をお支払いした。これがもし別のものになら躊躇するような額面だった気がするが、推しカプがおいしいものを食べるお話がいずれ来ることや楽しいお寿司の時間のことを思うと、なるほどお金とは平等で便利なものだなあと今更のように思ったのだった。
こうして私はお寿司を食べるお話を二本も読むことができた。

パーッと思いきり、これだ!と思ったものにお金を出すことへのハードルはいつから低くなったんだろうと思う。自分で稼ぐことができて使える幅が大きくなったからというのはまずあると思う。けれど。
小学生をしていた頃、月のお小遣いは1,000円だった。それを何に使っていたかよく思い出せないけれど、誰かのプレゼント資金として特別に3,000円貰った時に、堂々と自分用に音楽CDを買って怒られたのは覚えている。
中学生になってからもう少し増えたお小遣いは3,000円。私の周囲の子よりも低めの水準で、日々の細々したものと漫画や雑誌数冊を買っていくと消えていったので、プチプラの化粧品すら高額商品に思えていた。コンビニで自分用に食べ物を買うなんてことは思考になかった。当時好きだったアニメの初回版DVDが6,000円ぐらいだったので、それはどうにかやりくりして1巻だけ地元のCDショップで買った記憶がある。そのDVDはいつか誰かに貸したきり返ってこなかったのだけど。

むかし中学生ひとりの生命線だった3,000円を、今はいろんな用途で使えるようになった。ボディケアに使うもよし、友人とのおいしい一回の食事に使ってもよし、今度出る新譜をお祝いの気持ちで何枚か積むもよし。花をたくさん買ってみたり、友達の欲しいものリストから何かを無作為に贈ってみたり、10連ガチャでひと時の高揚を得てもいい。自分で自分を楽しくする方法に、たくさん手が届くようになったのは良いことだと思う。

けれどそこから昔買った本や音楽の記憶が鮮明なのはどうしてかと考えると、今よりずっと選択肢がなかった自分が必死の思いで買っていた本やCDだったからというのはあるのかもしれない。当時の思い入れがそれだけ強かったから、後々に自分を形成したとさえ思うようになったのかもしれない。
3,000円の尺度が大事なお金ではあるけど大金では無くなって。自分で自分を愉快に助ける方法が増えたのか、自分にこれだけいろいろ使わないと自分を保てないぐらいにストレスフルな環境に置かれてしまっているだけなのか。それはすっぱりとは分からないことだなあと思う。

大人になって、推しカプがお寿司を食べる話をいただいたとき。本当に本当に嬉しかった。感謝が尽きず自分をいま充足させるのはこれだと確かに思った。
3,000円はかつて大金で自分を自分で面倒見られる精一杯の金額で、今は様々な尺度で使う金額に変わったけれど。3,000円でもがく中でやっぱりこれはと思って買ったものがあるから、今もっと大きな額面でもこれはと思ったものに賭けて、自分を幸せにするため頑張ったお金の使い甲斐があるなとは思った。

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