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三年ぶりの接近戦で足が震えた

この一瞬だけでも推しとタイマンを張ることになるのなら。その時、推しと相対する私の魂は清廉でありたい。数年前、接近戦(サイン会やお渡し会の意)を重ねて、いつしか自分が思うようになったことだ。

もう五年近く前、とある声優さんのサイン会つきトークショーのシリーズに、地方からそこそこ詰めて通っていたことがあった。
新人のその人に、あなたが頑張る姿に勇気づけられているオタクはここにいるとお知らせしたい。それは強いて言うなら好感を示すために。
見えもしない有象無象から、ファンのうちのひとりという”数”になりたいと願った瞬間でもあった。

"数"というと、それぞれの人格の軽視のようにも思えるが逆だと捉えている。それぞれ成り立ちや暮らしがあり、確かに生きている人間が、同じ特定の人間に各々の感情を抱いている。それはなかなか、数と言わねば括りきれない動態の有り様だと思う。

通うにつれ、私は好意を示す他に、ひとつの願望を持った。
頑張る推しにふさわしいかは知らないが、私も自分なりに立派でありたい、頑張っていたいと。これは大きな変化だった。
「推しがいるから頑張れる」を、つらいつらい現世の救済としてではなく、推しも頑張っている現世を自分もより明るくできるため力にしたいと考えるようになったのだ。

私は私のために健やかでいたい。俯いて生活して身近な不幸を信じたままで改善することがあるならそうしている。推しは救済ではない、どこまでいっても他人だ。推しに元気を貰っている私自身が私を救済するのだ。だから立派な人間でいたかった。自分でも相当な見栄っ張りだと思う。

とはいえ長く根暗な人間をしていたので、すぐ変わることは難しかった。
当時はお給金が雀の涙の販売員だったけど、さもしい振る舞いや思考を変えられないかと模索していた。現状を変えたくて転職もした。
失敗もたくさんあって、願望で自分を戒めるあまり自分にも周りにも強い言葉を当ててしまったことだってあった。
型から入ろうとして遠征にお金を惜しまず自分の首を絞めたことだって何度も。衣服の選び方も下手なままだ。

それでも私は自分がなりたい一番とびっきりの状態で、清廉だと思える魂で推しに顔を見せたかった。
逆に、会うときの言葉はありきたりでよかったと割り切っていた。その時のイベントやコンテンツの感想を十数秒にまとめる力は、それはそれで必要だったのだけど。

その時の推しは、今も推しではあるけれど。
今は時々お手紙を送るくらいになった。見たい景色を共有できて、私が少し落ち着いた気持ちになったから。

そうして時は流れて。先日、新たな推しと数年越しに接近戦をした。
新たな現場は声優とは勝手が違う。はがしの人がいないし、そもそも物販を買うだけで接近戦への参加券が自動付与されるハードルの低さ。

それはそれで緊張した。新しい現場についての知識もまだ浅かったからだ。
なので、現場に入っていても接近戦に参加するまで実に数ヶ月かかっている。自分がこのように接近戦へのハードルを上げまくっているために、初めましての人と会話をするのに度胸がないのだ。

自分を宥め賺してどうにかブースにたどり着き。
こんにちはと言った瞬間、そこからずっと足が震えていた。手短にまとめる必要も無いのに、二言ほど言えたら良い方だった。
それでも、今日も楽しみにしている旨を伝えたら、笑ってくれたので安堵したことだけが記憶にある。

これは上手くやりたいという気持ちだろうか。それとも単に、見栄を張ろうとしなかっただろうか。
等身大の初心を思い出したい。あなたが頑張る姿に勇気づけられているオタクはここにいるとお知らせしたいと思った、あの日のこと。

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