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「いいね」と、ミスiDのその先

昨晩、小林さんがミスiD2021タグを付けたツイートに「いいね」をする騒動があった。いいねを付けられた人は凄く喜び、そうでない人は焦ったり怒ったりしていた。
わたしはそれを見ながら、「いいね」って怖いな、と思った。

Twitterの「いいね」は、もはやいいねではない。既読だったり、リプを送る代わりにもなる。それなのに、わたしはいつも望んでいる。通知が付くのを待っている。ろくにツイートしないのに。
今日も通知が来ないと思って自分のツイートを見ると、たいしたことないのが8時間前につぶやかれただけ。そんなんで通知が来るはずがない。でも、わたしは通知が付くのを待っている。

人類は反応を欲しがっている。

最近、少しずつミスiD2020のカメラテストを見て、感想をツイートしている。すると、@を付けていないのに2020の女の子からいいねが付く。どうやってわたしのツイートに気づくんだろう。エゴサかもしれないし、ファンからのDMかもしれないけれど、ミスiDになってもやっぱり、誰かからの感想という「反応」が欲しいのは変わらないんだ、とわたし不思議な気持ちに取り憑かれた。

ミスiDに、例えばファイナリストになったりしても、何度も出る人がいるらしい。それは、これからミスiDに挑戦するわたしにとって絶望だ。敵が増えるとか、倍率の問題ではない。ミスiDになってもやっぱり、「それだけ」では「戦えない」んだ、という絶望。ミスiDになっただけでは、全然変わらないんだ、という絶望。

ミスiDになったら、何かが変わると信じていた。もちろん変わると思う。でも、全部変わるわけではないっていう怖さ。今は審査のために戦っているけれど、終わってしまっても戦いは続く。もし変わったように見えるなら、その子が戦い続けただけだ。

そんな想像したくない。どこかで「もういいよ」って言われたい。「いいね」って、「もういいよ」に見えるんだ、一瞬だけ。

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