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生き損ない 20代から始める生(終)活 


「死は怖いものじゃない、ホラーは怖いけど死は怖くないんですよ」人気テレビ番組で有名な先生がおっしゃっていました。私も当時病棟に務めて、患者様の最期をある程度看取ってきていたので、悲しくも死に対して耐性がついてきてしまっていたこともあり、そのときは「死は怖くない」ことに妙に納得してました。誰だってどうしたって死ぬなぁ、と当たり前なんだけど当たり前には目にしない事実を病棟では目の当たりにしますから。
でも、「死は怖くない」って本当にそう思いますか?


私の死ぬことの価値観を順を追って示していきます。

まず、生きること、死ぬこと、これって反対だと思いますか?
私は、今の社会の固定概念的には生きる続きに死ぬがあると思っています。「今の社会の固定概念的には」とは、今は時間は不可逆的なものだと捉えられているからで、死んだ後どうなるか分からないからです。もし、人の無意識というものがあることに気付いたフライトのような人が出てきたら、コペルニクス的展開もあるんじゃないかなぁなんて期待している意味を込めた「今の社会の固定概念的には」です。話を戻して、私は生死が反対の言葉だとは思っていません。地続きで類するものだと思っています。生死が反義語だとする考え方は、確かに、生きてたら話せるけど死ねば話せなくなる、生きてたら動けるけど死ねば動けなくなる、生きていれば心臓は動いてたけど死ねば止まる。そういう動きの部分で捉えれば反義語かも知れませんが。私はとりあえず地続きのものとして捉えたいのです。

次の質問です。生きるのは、良いことですか?死ぬのは、悪いことですか?道徳的表現に言い換えると、生きるのは、素晴らしいことですか?死ぬのは、望ましくないことですか?
-生きるのは、素晴らしい。死ぬことは、望ましいことじゃない。-おこがましながら、そのように答えた方にさらに質問してもいいでしょうか。例えば、あなたもしくは大切な人がこんな状態だとします。飲み込む力が弱くてご飯は食べられないので、鼻から胃に管が入ってそこから栄養剤が流れ込みます。常に鼻から管がある違和感がある、でも、お年や持病で胃瘻を作ることは困難です。栄養剤を流すと口の中の内容物や逆流物が気道に入って、痰が増加します。窒息を防ぐために、胃の管が入っていない鼻の穴から3時間おきに痰をとります。その管はインフルエンザの検査なんて比にならないくらい太いです。粘膜もカサカサで傷つきやすく、鼻から血も出ます。つまり、きっととても痛いです、地獄がやってきます、3時間おきに。筋肉は衰え体は徐々に細くなり、骨張った体は自分の力では動きません。変わらない景色。ベッドに寝続けて痛い腰とお尻。そういう状況だとしましょう。もう一度聞かせて下さい、死ぬことは望ましいことではないですか?病棟で、そこにあるのは「生きたい」という願いだけではなく、「死にたい」という願いもあるです。それを知って欲しい。必死に必死に掠れた声を絞り出して、「死にたい」と言うのです。私は、その願いの目を忘れられないのです。そして、その人にそう言われても、日々のケアと「私はあなたに居て欲しいです」なんて、その人のその言葉の覚悟と比べたら無いにも等しいくらいどうしようもなく薄い言葉しか掛けられず、また点滴を刺します、鼻から管を入れます。
あなたにとって「より良い最期」とはなんですか。正直、今の日本の医療は「より長い最期」を肯定するものと思っています。もちろん、医療者はその中でより快適に過ごせるよう疼痛コントロール、ケア等懸命に動きますが、この文の始めにあるように「その中で」の話です。だからといって、日本を出ようと思う程活動的な人間ではないので、「より長い最期」を「より良い最期」にしたいなと思います。つまり、どういう最期を迎えるかは分からないし自分では決められないかも知れないけれど、自分のできる範囲で満足できる最期にするということです。例えば、病死するなら誰に看取って欲しい、とか。事故で死んでも、愛する人への最後の最後のキスは命日になるように毎日行ってきますのキスをしよう、とか。それが私が20代から終活を始めた理由です。生死が地続きの存在である私にとって、終活は『生活』です。私にとって特に自殺志願者という訳ではなく、ただ生の最期を見据えた生活をしたいと思っています。

ついでに違うアングルから、生きるのは良いことか、死ぬのは悪いことかについて書かせて頂きます。高校のときに国語の先生が「世の中の良いもの悪いものの価値観は割と固定されていて、これからはその概念が崩れていく時代になると思います」と当時の課外授業でおっしゃっていました。世の中の価値観とは?例えば、良いこと:明るい性格、髪がふさふさ、間違いがない、真面目、生きる、(仕事等が)早い、スタイルがいい、一生懸命、裕福、誠実。悪いこと:根暗、はげ、間違い、ルーズ、死ぬ、(仕事等が)遅い、デブ、手を抜く、貧困、浮気。こんなところでしょうか。国語の授業的には、この価値観に沿って小論文を読むと読み解きやすい、との教えでした。色んな小論文を読む度に、その小説によるところの良し悪しを読み取って◯の中と外に書き出してごらん、色んな小論文が読みやすくなるよ、と。たしか、そんな感じです。(なにぶん、もう十数年前の話でして、私の記憶の話になってしまいます。)つまり結局、大体の価値観って世の中が決めてるものだということ。そんなこと言っても、世の中の価値観に全く関与されないで生きていける程私自身柔軟な人でもないとは思ってはいますが。先生のいうところの「概念が崩れていく」流れは、多様性を認めていく世の中の動きそのものでしょう。そういう社会よりは十歩、百歩前を歩いていきたいです。元々社会は人に動かされるんだから、当たり前といえば当たり前のことではありますが。もちろん、自分は柔軟だから一番良いなんて思うのは、それこそ価値観が固定されているような気もします。何より自分軸を持つことを大事にしていきたいと私は思っています。

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