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旅行記録 2023/08/08-大原

 その翌日、眠い目を無理矢理開けると、扉の向こうから両親の声が聞こえてきた。既に7時になりかけているという。体を引き摺り、這いずってどうにかこうにか居間へと向かった。朝食を摂り、歯を磨いて着替えているともう時間が迫っている。いったん京都駅までバスで出て、そこから大原行きのバスを待つ。
 寂光院へ昔、僕は行ったことがあるようだ。その近くの料亭で昼食を食べたことは覚えていたのだが、まさかそこが寂光院の近くだったとは。幸い京都駅にて1番にバスに乗り込むことが出来たため、それぞれ1番前の席に座ることが出来た。何故か母と父は具合が悪いそうだ。僕も母も乗り物酔いをしやすく座ることが出来なかったならバスの揺れで転倒するかもしれない。座れて良かった。
 途中20人にも上ろうかという人がバスに入ってくるのを見て、記憶が途切れた。朝からまだそこまでたっておらず眠気が再び雁首を持ち上げてきたのだ。気がつけば、もう終点の大原。あれほどいた、乗ってきたはずの人たちはいつの間にか姿を消した。大原で降りたのは僅か数人。
 いまならば、おそらく寂光院は空いている。そう判断して向かってみると空いているどころか開いていなかった。開くまでの十数分を利用して寂光院周りを歩く。落ち着く。なんていいところだろう。合宿をここでやっても問題がないように感じるのだが。でも京都は突然暑くなる。ちかくに飛び込めるだけの安全性と広さのある川がないため、賛同されることはないだろう。公共交通機関も少ないし。
 しばらくして住職が5分前に開けてくれた。他に人がいない中ご本尊にお参りし、本堂で5式の糸を握って願い事をする。できればまた、もう一度ここに参拝しに来たい。

寂光院。五色の糸を握ってした願い事が叶ったときは、もう一度参拝するのが常だという。

 寂光院をぐるりと巡って、母が御朱印帳を買ってから―父はたしか晴明神社。僕はまだない。買うとしたならば、やたがらすの熊野神社だろう―外に出る。この後三千院にも向かう予定だったけれども、突然の雨。出かけるときは晴れ100%の予報であったため、母以外傘を持ってきていない。
 しばらく道を降りていくことは諦めて、その隣の建礼門院陵を見学しに行く。このごろになると最早土砂降りとなり、傘を持っていようがいまいが急な石段にて足を滑らしてしまう予感があったが、幸いなことにそういったことは起こらず粗相を働かずにすんだ。

 雨に打たれながらなんとか屋根の下に滑り込んだが、いつまでたっても雨は止まずに強くなる一方。今回僕たちは前回と同じ料亭で昼食を摂る予定にしていた。そこは開店まで1時間ばかし。その分の時間を三千院で過ごすつもりだった。が、今この雨でそんな予定は消し飛んだ。この雨の中、観光客が三千院と寂光院とどちらかを選べと言われるのであればまず三千院を選ぶだろう。そちらの方が確実にバス停から近いからだ。
 つまり、この雨の中頑張ってバス停に行ったとして、おそらく三千院は人がいる。それも多数。そんなところでもまれて何も出来ずに雨に打たれながらすごすごと料亭に帰ってくるぐらいならばはじめから料亭にいた方が良い。

雨が降り始めたとき、寂光院にて撮った1枚

 そう思い、その料亭に玄関先を借りることが出来るか聞いてみたところ快い返事をもらえたため、軒下で本を読みながら1時間弱。南極料理人が雨のせいで―もしくは僕のバッグに入っている父の水筒のせいで―水に浸っていたため、その安否確認を兼ねて頁を1枚1枚めくりながら読んでいく。父は「路上の人」を読み、母は「封神演義」を読んでいた。
 そんな僕たちを気にかけて戴き、やがて開店より少し前に上がらせて戴いた。扇風機二つの風が送られてくる絶好の場所で、ひたすら南極料理人を虫干しすることに専念する。
 小学生の時にここに来た記憶もうろ覚えだが、いまいる席の近くでどこかの子どもとおもちゃで遊んだ記憶が残っている。なんとなく懐かしい幾つかのおもちゃ。それらはまだ、残っている。それらを眺めながら前回寂光院に来た時の記憶を掘り起こそうとするのだが、全く持って見つからない。けれども父が大原女で撮った写真をいまでも持っている。それは確かに、今回寂光院の前まで行ったときに見ているのだ。
 どこか記憶のあるような、ないような。そんな何とも言えない気分でいる間、次々と予約したという他の客が来て一気に賑やかになる。時折外の通りを通る人たちの足音や話し声が聞こえてくる。僕たちが食事をしているときも引き返してくる足跡は聞かなかったため、おそらくこの時10人以上が寂光院にいたのだろう。
 寂光院の宝物殿に能に使うという面がある。能と言えば、僕にはあまりに退屈なものとして映っており、父に至っては「よぉ~っ ポン!」という太鼓の音に過剰反応し、これのたびにくつくつくつくつと笑っていたことを今でも覚えている。
 そんな能のため、正直言ってあまり面白いとは思わなかった。やはり、狂言や落語の方を好む。あと、今後出来れば人形浄瑠璃なども見てみたいが、果たしてまだやっているのだろうか。もしそうならば是非見に行きたいが。
 ここで出てくる食事は絶品で、乳製品・小麦禁止のはずの母もピザに手を伸ばす。最初にしそジュースなるものがあると聞き、頼んだのだがこれは思ったよりも好みではなかった。しそジュース自体は美味しかったのだが、炭酸で割られていた。
 僕は炭酸が嫌いだ。飲めないわけではないが、積極的に飲もうとは思わない。その原因は3歳の頃に遡る。あるとき廊下を歩いていた僕は、父の部屋の前で赤いラベルの付いたペットボトルを見つけた。
 ……まだ、中身は入っている。丁度喉が渇いていたため、ありがたくそれを拾い上げ、キャップをはずして口にした。そこから先の記憶は定かではない。ともかく、このことはそれほど小学校入学前の記憶が残っていない僕にとって、「滑り台転落事件」、「玩具自動車転落事件」などと共に末永く僕の記憶に居残り、以来僕を炭酸嫌いにさせた。
 このことに対する恐怖から僕はこれまで炭酸を飲まずに来た。押しつけられれば少し飲んで突き返す。単に勧められただけならばなにかしら理由を付けてのらりくらりと逃げ惑う。学童の時―小学校は、楽しかったなぁ―僕や僕と同じ月生まれの誕生会が執り行われた。たしかあのときは、僕は小学3年生だったと思う。そのとき、ファンタが出た。皆はいかにも美味しそうに飲んでいたのだが、僕はあまり飲む気になれず、それでもせっかく皆が祝ってくれたのだからと一息に飲みほし―かなり小さいコップだった―軽く体調を崩してトイレへ駆け込んだ。
 とにかく、体質的にはまったくもって問題はないのだが、幼少期のトラウマから来るストレスで酷いときには勝手に体調を崩してしまうのだ。とはいえ、今となっては炭酸水程度飲んだところでなんの問題もないだろうが。
 昼食を満足いくまで摂ると、眠気が襲ってきた。なんとかバス停までは堪えたものの、そこから先はもう駄目だ。頑張って京都市内へ入るまでは起きていたものの、そこから先で意識が途切れた。
 と、不意にたたき起こされた。訳のわからぬままに両親に続いてバスを降りる。烏丸線のある駅だった。これ以上言えばもはやわかると思うが、松原始さんが「三条の土下座」と呼ぶ像を目の当たりにする。
 そこから電車に乗り、祖父母の家に帰った。帰ってくるなり倒れ込んで泥のような眠りにつきたかったのだが、もう時間は午後2時。眠気を堪えて、昨日のあまりの名物「もみじ饅頭」を食べる。幾つもの種類があって選ぶのは一苦労だったが、この「にしき堂の生紅葉」は思った以上によかった。
 風呂に入り、あがってマッサージチェアに腰掛ける。疲れが一気に出た。2日後には帰宅する。未だ奥多摩合宿の日記は仕上がっていない。ラットの解剖のものも手つかずだ。さらに帰ったらこれまでの旅行日記も書かなければならない。1週間で書き終えることができなかったならば、次の奥多摩合宿へと行ってますます記憶が薄らいでしまう。そして、そこから帰ってきたならば旅行に加えて合宿の日記も書かなければならない。本当に大丈夫なのかと頭の片隅で思いつつも、すぐに頭は読書のことに染まりきった。
 あらかじめ祖父母の家に送っておいた「少年時代」という本と、漫画の「宗像教授伝奇考」シリーズを読み耽る。坂口安吾の「堕落論」は読み始めたのだがいかんせん集中できず読み終わることが出来ない。「高野聖」は手を出すことすら出来なかった。

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