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(小説)山に眠る鳥たち -10-

 大晦日朝。
 障子戸を開くと外は真っ白だった。どうりで全く外の音がしない訳だ。雪の夜は空気の粒が動く音さえも耳に届きそうなほどの静寂だ。太陽が上がるにつれ、青みを帯びた雪のスクリーンはオレンジ色に変化し、やがて光を強く跳ね返すまでになった。
 三人で話し合って、雪が降る前に、地震で崩れかけた車庫に工事を入れた。真紀ちゃんと俊君の車は家の前に野晒しで停めていたので、これから購入する予定の私の車と三台分収納できるように建て増しした。費用は三人で工面するつもりだったが、有紀叔母さんが心配して私たちに払わせてくれなかった。
 真紀ちゃんが、ハンドメイド好きの友人から買った松飾りを玄関の上に掲げた。三人とも生家に帰省しないつもりでいたら、母たち三姉妹で、泉ヶ岳の家で正月を迎えよう、と話がまとまったらしく、昼過ぎに母三姉妹とうちのパパ、俊君と真紀ちゃんのお父さん、俊君の妹で大学生の和花名(わかな)ちゃん、真紀ちゃんの妹の真央ちゃんの八人が、真紀ちゃんのお父さんの大きなミニバンに乗ってやって来た。真央ちゃんがバスケのスポーツクラブに入っているので、クラブの子供たちを引き連れて遠征試合に行けるように、真紀ちゃんのお父さん(尚人(なおと)叔父さん)は大きな車に乗っている。

 私は復学した後、運転免許を取得しやっと正月を迎える心持ちになっていたので、久しぶりに親戚が集合する年末年始が楽しみだった。当然ママも来るけれど、1対1でなければ隠れようはいくらでもある。一族の中で、お兄ちゃんだけが貴子さんの実家に向かう理由で欠席だ。
 パパたち男性四人は、餅や魚や酒など、買い込んできた正月食材と八人それぞれの泊り荷物を車から降ろして玄関の上がり框まで運び、その後はママに指示されて仏壇の掃除を始めた。母三姉妹と真紀ちゃんは台所に籠って、特定のお役目が無い私は、呼ばれるままに家の中をウロウロして回った。
ママと有紀叔母さんがおせち作りを担当し、煮るだけになった牛蒡の昆布巻きをパックから出して鍋に敷き詰め、傍らでは、ふっくら炊き上がったつやつやの黒豆を圧力鍋から器に移し替えている。御重には既に、なますや伊達巻や紅白かまぼこが詰められていた。
 多江叔母さんと真紀ちゃんは11人分の年越しそばを大鍋で茹でて、水で締めている。大量の湯気を浴びている真紀ちゃんの顔は真っ赤で、額から汗が噴き出している。水道もガスコンロもレンジも、フル稼働だ。
「外、吹雪いてきたよ。これじゃぁ初詣は明日だな」
 仏壇の掃除をするために開けていた窓を閉めながら、俊君のお父さんである日向(ひなた)叔父さんが言った。
「あらほんとー?」
「この辺、昔から年末は吹雪くのよね」
「でもいいじゃない。もう家でゆっくりすれば」
 母たちが台所から次々に返事をした。三人の声がよく似ていて顔を見ないと誰の声なのか分からない。
 水道から沢山の水が流れて、まな板を叩く包丁のリズムがあって、ごぼごぼと泡を上げながら、大鍋の中で蕎麦は踊り、何枚もの皿が積み上がって、お酒の匂いがし、人が動き、柱時計の鐘は今年が終わるまでのカウントダウン。ちょっとした話題で盛り上がる会話。親戚が集まって過ごす数日間は、非日常の異空間だ。
 男性陣は掃除を終えて直ぐ、景気づけの一杯を始めて、日向叔父さんの頬はたちまち綺麗なピンク色に染まった。
「晶、これ仏様にお供えしてきてくれる?」
 御膳に伊達巻、緑のお浸し、芋の煮つけ、なます、お餅の小鉢がピッチリと載せられ、ママは私に両手で慎重に渡した。ゆずの香りが鼻腔に触れて気持ち良い。仏壇には清々しい空気が漂っている。鐘、蝋燭、線香立ての奥にお膳を据えた。日頃、仏壇の扉を閉めていてばかりなので、おじいちゃんとおばあちゃんに叱られそうな気がする。居心地悪く手を合わせると、そそくさと私は仏壇を後にした。
 居間と仏間を仕切る襖は外され、二つの大きな座卓がくっつけられる。人数分の座布団も並べてある。小さい時に親戚が一堂に会した時と全く同じで、心は躍る。真紀ちゃんも俊君も同じみたいだ。ガラスコップを運んできた真紀ちゃんはいつにも増して手際が良い。俊君も箸を並べたりビールを運んだりしている。パパは皆から離れた窓を開けて、遠慮がちに煙草を吸っていて、日向叔父さんと尚人叔父さんは座卓の端っこを陣取って既にビールを汲み交わしている。和花名ちゃんと真央ちゃんは二人で和花名ちゃんのスマホを見てクスクス笑いながら壁際で内緒話をしていた。和花名ちゃんは大学生で私達より三つ下。東京の大学に通っている。座卓は料理で埋め尽くされていく。女性陣も台所からエプロンを外して引き揚げて来た。
「さぁ、まずはおじいちゃんとおばあちゃんにみんなで挨拶しましょ」
 この家の長女であるママの一声で、仏壇の前に勢揃いし、一斉に手を合わせた。皆が同じ空気に包まれて同化するような一瞬だ。自然に心が一つに合わされていく。拝み終わって座布団の席に着いた。ビール瓶とペットボトルのジュースが行き来する。
「今年も、皆さんご苦労様でした」
 ママの声に皆がグラスを持って姿勢を正した。
「今年は、何年かぶりにこの家に私たちが集合して、おじいちゃんとおばあちゃんも喜んでいることでしょう。地震があって大変な一年でしたけど、何とか年を越せますね。来年は明るい一年にしましょう。今日はお亡くなりになった方へ献杯をしたいと思います。よろしいですか?……献杯」それぞれが粛々とグラスを持って会釈して宴は始まった。ママが献杯をしたことが意外だった。自分のことしか考えないママだから勢いで乾杯しそうなのに、少しは常識人の部分があるみたいだ。私は俊君の表情を窺った。絵里奈さんに気持ちを寄せて、また悲しくなったりしていないだろうか。俊君と日向叔父さん多江叔母さん、和花名ちゃんの顔には笑顔があった。作り笑いかもしれないけれど、それを見て私はホッとする。目前の話題は、尚人叔父さんの歯科医院が地震で大変だったことに始まり、お兄ちゃんの婚約、和花名ちゃんと真央ちゃんの近況、真紀ちゃんのジャズフェス出演と続く。絵里奈さんのことは誰も口に出さない。話題が一巡して尽きると、
「晶ちゃん、学校戻ったんだって?」
 酔っぱらってすっかり目じりが垂れ下がった日向叔父さんが、私に話を向けた。絵里奈さんのことの次に、私の事はみんな気を使って避けてくれていたのに、酒の力は怖い。
「そうなのよ。やっと」
 私より先にママが答えた。ママが庇いたいのは自分自身。私じゃない。ママにとって私はブランドバッグと一緒。私はビールを一気に飲み干す。
「あら、晶ちゃんもイケるクチなのねぇ」
 酔って益々ゆっくりな口調になった多江叔母さんが、空になったグラスに次のビールを注いでくれた。私はまたすぐ空にした。
「晶、ちょっとペース早すぎよ。あんまり急に呑むもんじゃないわ」
 ママの注意にムカつく。
「うっさい」
 不意に口から出た声は低く据わっていた。周りを見渡して、雰囲気をぶち壊してしまったことに気が付いて、ふわふわした酔いが一気に消えていく。
「なんだ? 晶も随分強くなったもんだな」
 笑いながら今度はパパが私のグラスにビールを注いだ。パパのお陰で、場は一気に和やかな空気に戻った。
「あなたまで、やめてください」
「今日は大晦日だぞ。こんな日ぐらい、なぁ」
 パパは「呑め呑め」と私に向かって掌を上に向けて二度煽った。
「せっかくみんな揃ってるんだから、リフォームの、」
「あ~、あ~、お姉ちゃん、めんどくさい話しは今度、今度」
 スルメをしゃぶりながら、有紀叔母さんがママに日本酒の御猪口を持たせ、「はい、はい、はい」と熱燗を傾けた。

 早々に酔い潰れたのは日向叔父さんで、座布団を丸めた枕で鼾をかいて寝てしまった。パパと尚人叔父さんと俊君は、テレビを見ながらウイスキーを呑んでいて一言、二言、言葉を交わす。母三姉妹は世間話をずっと。止まる気配は無い。
 私、真紀ちゃん、和花名ちゃん、真央ちゃんは交代でお風呂に入った。そうしてそれぞれが午前零時を待つ。紅白歌合戦は中盤を過ぎたくらい。テレビ前にいる三人は紅白と民放をハシゴしている。
 お風呂から出て、スウェットの下にヒートテックを着たのに寒いと思って見渡すと、エアコンの暖房の他に二つ焚いていた石油ストーブのうちの一つが、灯油切れになっていた。
分厚いダウンを羽織って、灯油缶をストーブから抜くと、俊君が「俺が行くよ」と代わってくれた。何となく流れで俊君が裏の土間に降りて行くのに着いて行く。灯油が切れただけではなくて、今日はいつもより気温が下がっているらしい。息の白さが、くっきりしている。
「なにしてんの?」
 真央ちゃんが興味深げに追ってきた。真央ちゃんは一番下の従姉妹だからおじいちゃんとおばあちゃんのことは殆ど覚えてない。この家で見る事を新鮮に感じているようだ。
「ここ何する部屋?」
 真央ちゃんは、薄明かりの裸電球が橙色に照らす土間を見渡した。
「ここは昔、おじいちゃんが畑仕事する機械とか道具とかを置いとく場所だったの。あと、灯油を汲んだりする場所。野菜とかもここに保存するの。その棒に玉ねぎ干してあるでしょ」
 私が指さした、天井から吊り下げてある物干し竿の玉ねぎを、真央ちゃんは上を向いて探した。
「玉ねぎって干すの?」      
「学校で習わなかった? 保存食なんだよ」
 俊君は先生っぽく慣れた感じで口を挟みながら、満タンになったタンクからポンプを抜いて、栓を回し閉じた。
「これでオッケ。戻ろ。さぶっ」
 外と内とを隔てるガラスが嵌められた木製の戸は、建付が緩くなってしまっていて、風が当たるたび小刻みに揺れて、ガタガタ、カタカタと、まるで誰かが「開けてくれ」とノックしているような不気味な音を発している。ぶら下げられた裸電球も呼応するように揺れて、自分たちの影がゆらりと動いた。
「やだ、ここ、こわい~」
 真央ちゃんは私の腕にしがみ付いた。
「外の吹雪のせいだよ。夏の昼間とかは、ここ、涼しくて最高なんだよ」
 と余裕を見せる私だが、一人だったら怖くて灯油なんか我慢して、寒さと共に一晩過ごす決意をしたかもしれない。戸のガラスに大粒の雪の結晶が叩きつけられては水滴に変わっていく。
「真央―っ、ほら、あなたの好きな、なんだっけ、ほら、ナントカさんが次、歌うって」
 有紀叔母さんが紅白の順番を真央ちゃんに知らせた。真央ちゃんは私をテレビまで引っ張っていき、俊君はマッチでストーブに火を入れた。

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