恒星のとなり

マナは最後尾の車両に乗り込んだ。ぽつらぽつらと座席が空いている。地下鉄の階段を降りたとき、中間あたりの車両待ちの列は、帰宅の高校生や、仕事帰りの人たちで、ごった返していた。それなのに最後尾は、世界が違うくらいに落ち着き払っている。何もわざわざ混む場所を選ばなくてもいいのにと思いながら、腰を落ち着け、マナはバッグからスマホを取り出す。

マナが帰路に就くのは大抵夜の9時、10時だから、7時台の地下鉄には、こんなに大勢が乗ることに驚いている。仕事が嫌になって、今日はさっさと切り上げてきた。うちの職場の、悪いとこーー問題が起きれば、誰かに押し付けるーーが勃発しそうだったので、うまい具合に逃げてきた。

スマホの画面に、おでんの広告が表示される。もう、そんな季節か。見渡せば、カーディガンや秋のコートが目の前に並んでいる。そのうちの一人をマナは見つめる。女性と二人で並んで座っている男性。にこやかに静かに会話を交わす二人。男性の顔がマナのほうに向きそうになって、マナは咄嗟に下を向いて、ボブの髪の毛で顔を覆った。

「好きな人ができた。離婚してほしい」

大好きな柔らかい声で、そう告げられたのは1年前のことだ。夫の好きな人が誰なのか、マナは知っていた。マナの友人だった。マナはいっぺんに愛した夫と、親しい友を失った。

マナは弁護士だ。仕事にかまけて夫を大切にしなかったし、夫が望む子供を作ることを拒み続けた。我慢させた罪悪感があったから、友人に走った夫を責めることはできなかった。仕事上、数々の壊れる家庭に関わってきた。だからこそ、ぐちゃぐちゃになって別れたくなくて、慰謝料無し、財産はきっちり半分にして判をついた。

今、彼の隣にぴたりと座っている女は誰なのだ。マナの知る顔ではない。友人と一緒にいる彼を、やっと受け入れられそうだったのに、気持ちをどこに落ち着かせたらいいのか、マナは分からなくなる。

私の次は友人、その次が、その人?……いや、間に何人かいるのかもしれない。彼という恒星の傍を、惑星が次々と入れ替わるように。

マナは独り身だ。職場は高齢な職員が多く、出会いなどない。むしろそれでマナ自身、すっきりさっぱりして動きやすい状態にある。

二人は彼女のスマホを見つめ、同じタイミングで顔が綻ぶ。彼の視界には、私という惑星は、とっくにいない。マナが降りる3つ前の駅で、二人は立ち上がった。マナの前を通り過ぎる。車両から降りた彼の横顔は、車両の窓と平行に滑っていく。それを、マナは駅の雑踏との一部として、ぼんやりと見遣る。やがてドアは閉まり、緩やかに窓は彼を追い越す。

彼がふとこちらを向く。目をきっちりとマナに合わせ、すごく、すごくわずかに、彼は会釈をした。

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