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人は思わぬ感情に埋もれているもの

今日ふと思い出した。

兄やんが3年前に社会人になって家を出た時のこと。

私はその瞬間まで何とも思っていなかった。
というよりも・・
前の日家族で焼き肉を食べた時でも
「あれ?」って思ったけど気のせいくらいにしか
思っていなかった。

おかしいぞって思った。

悲しいとか寂しいとかそういう言語化できる感情ではない。

家を出るったって、新幹線に乗ればその日のうちに着くし
車で飛ばせばその日に着く。
頑張れば手の届くところに引っ越した。

うん。

にいやんを東京駅に送る時も
ますますおかしくなっていって
新幹線のホームで泣いた。

そしてふと、
自分の一部が無くなったような気がしたのだ。

自分でもびっくりした。

わかっている方もいるけど
わたしはそんなに子供子供子供と騒ぐほうでもないし
家に帰ってこないときもいちいち連絡しない。
今も実家の母が「今度はいつ来るの?」と聞いても
100%知らないし
「休みは帰ってくるの?何時ころ?」と聞かれても
聞かれても知らない。旅行と聞いても
場所は教えてくれたら聞くけど、聞かない(笑

学校や就職の時も一言も
口を挟むこともなかった。

ただ兄やんが高校生の時失恋したときに、お寿司を食べに行っただけ。
もちろんまわるとこ(笑
「彼女のどこがだめだったの?」と聞いたら
「一緒居て話をしてるときでもずっと
携帯触ってるんだ」
というので
「それはダメだ。人は最低限のお作法があって
どんな人であってもやってはならないルールがある。
この人にこれは良くてこれは良いとかそういう線引きするような
人は思いやりがないんだよ。それって価値観の違いだから
正せない。近しい人だから許されるなんて思ったら大間違い。」
というと
「そっか。」といって二人でお寿司を食べたっけ。

話を戻すけど
そう、わたしはそんなに子供中心にまわってる人物ではない。
どっかクールだと思ってた。

しかし、その家を出るというイベントは私自身気が付いていなかったけど
とんでもなく大きな節目の出来事だった。

自分の心の奥底にずっと仕舞われていたかのような
感情でふとしたはずみに出てきた。

そして、わたしはそれをきっかけに
その年は散々大変で心を病んでいくほどだった。
もちろんほかに要因があったのだけど。

私はその時に
自分って脆いなって思った。
感情をコントロールできないくらい。
自分一人ではどうしようもできなかった。

よく潜在意識と顕在意識とかっていうけど
そんなもんじゃない。

意識できないくらい深く深く大事にしまわれている感情って
人にあるものだ。

強そうな人が脆かったり
か弱い人が強かったり。

自分の知らない自分なんて何かきっかけに
ひょいと出てくる。

あ、私は自分のことを悪く言われても
あーそうですか、すいませんって思うんだけど
大事な人のことを悪く言われると
命を懸けて怒ったりする(笑
日本が銃社会じゃなくてよかったとさえ思う(笑
危ないったらない。

そうだから。自分が自覚してる自分なんて
ほーんのひとかけらなんだよね。
だから、いちいちダメって思わなくても良いと思う。
それなりの自分でいいはずだから。
細胞の分だけ自分が存在するんだと思うようにしている。




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