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【ショートストーリー】最後のキス

 スタッフへのお礼もそこそこに、荷物をまとめ車のエンジンをかけた。今日でこの職場とさよならだ。得意先への挨拶回りも仕事の引き継ぎも済ませた。最後の日だと言うのに、彼は営業に出ていて戻らなかった。 
 出発寸前、駐車場に営業車が入って来るのが見えた。このまま帰るのも気まずいから挨拶くらいしようか。わたしは車から降りて彼を待っていた。
「今日はお土産があるんだ」
 営業から戻ってきた彼が冷たい手で小さな箱を差し出した。
「チョコだ」
「花よりチョコがいいかと思って」
 毎年発売される冬季限定のチョコレートを受け取った。
 綺麗な二重まぶたの彼は、本当にかわいい顔をしていた。そうかこの人はわたしの天使だったんだ。最近は喧嘩ばかりしていたから忘れていた。思わず顔をまじまじと見てしまった。目と目を合わせて話すのは久しぶりのことだから。

「セックスしよう」
 彼からそう言われた時、わたしはちょうど不毛な恋を終わらせたばかりだった。彼のことは好きでも嫌いでもないし、もっと言ってしまえば誰だって良かった。良くも悪くも無味無臭なセックスだった。だからと言っておざなりにされたわけではない。最初から最後までちゃんと思いやりを感じられるものだった。
 元々彼とわたしは会社の同期でライバルだった。恋人でも友だちでもなかったけれど、境界線を見失う程に許し合う関係だった。その分遠慮もしなかった。ちょっとした意見の対立で子どもみたいに喧嘩をした。些細なことで大人気なく何度も傷つけあった。 
 別々の場所で同じ夢を見て、叶えるために出会ったような二人だった。もう少し、もう少しこの会社で頑張れば、夢は叶ったかもしれない。だけどすれ違いを繕うことはできなかった。残酷に時間は過ぎ、終わりは突然やってきた。

「あなたが考えてることはいつだって正しいよ。だけど許せない俺がいるんだ。一緒にいたら、自分のダメなところばかりが見えてきて怖いんだ。俺は子どもなんだよ」
「許せないほど憎いとか、逆に光栄だけどね」「憎んでなんかいないよ」

 愛でもない恋でもないから、関係性に結論を出す必要はなかった。許し合い全てを受け入れていた。温もりが欲しければ触れられる心地良い関係に甘えていた。

「例えば喧嘩したまま別れたとしてもそれまでの何年だっけ?この10年間何回も助けられてきた。信頼はこれからも変わらない」
「一度崩れた信頼を取り戻すのは難しいのよ。また絶対に同じことを繰り返すに決まってる」
「別れ話かよ。俺たち付き合ってるみたいじゃない?」
「付き合ってないって。元気でね」
 二人ともありがとうもごめんねも言えなかったし、言わなかった。

 駐車場にマイナス5℃の粉雪が舞っている。それは泣けない天使たちの涙なのかもしれない。わたしたちはどちらからともなく抱き締め合った。誰かに見られても、もうどう思われても良かった。誰にもわからなくていい。自分たちだけがわかっていればそれでいい。
「これからもよろしくね」
 目を閉じて小さく頷き唇を重ねた。
 天使たちの涙は空からの贈り物に変わり、何もなかったように二人の足跡を消していった。
 チョコレートの箱には【とろける口づけ】と書かれていた。二人で過ごした甘くて苦い時間もチョコレートと一緒に口の中で静かに溶けていった。

 


【あとがき】
お読みいただきありがとうございます。
甘野充様の企画
『あなたのキス』に参加したくて、昨年書いたものを加筆修正いたしました。
(季節外れでごめんなさい)去年この冬季限定商品、雪のような口どけのチョコレートをいただきました。ストロベリー味でした。とろける口づけ。そこからイメージして書いたものです。お話はフィクションです。
ウフフフフ(サザエさんぽくね)

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