「ノー」というやさしさ

「イエス」は相手にやさしく、「ノー」は相手に厳しい、という誤解があるように思う。だからこそ「イエスマン」や「ノーという勇気」といった言い方がされる。
ホントに「イエス」が相手への忠義・やさしさであり、「ノー」が相手への裏切り・厳しさなのか?

違う!
いくつか例を考えてみたい。

①とても成功しなさそうな新取組を部下が提案してきた
→この段階での「イエス(やってみなはれ)」「ノー(絶対失敗する)」はいずれも無責任だ。部下は理由が分からず、「OK取ったので失敗してもしょうがない」「上司は新しい取組には否定的」と解釈される。
⇒正しい反応は「成功しなさそう」の理由/事例を共有し、そのリスクにどう対処する予定か?を問う。対処できる見込みがあれば「イエス(是非やろう!)」、考えていなければ「ノー(勝つ自信なければ止めておこう)」だ。

②上司が目的曖昧な仕事をお願いしてきた
→これもすぐに「イエス(やります)」「ノー(忙しいので無理)」は無責任。ムダな仕事を作る可能性や、より大事な仕事をし損ねるリスクを生んでいるからだ。
⇒正しい反応は、曖昧な目的を明確にし、その仕事の優先度を正しく理解すること。仕事の意義が大きく優先的に対処すべきものであれば「イエス(今の仕事よりこちらを優先!)」、そうでなければ「ノー(仕事の意義がない/今急いでやる必要ないのでは?)」である。

③大切な友人がお金を貸してほしいと言ってきた
→これも「イエス(有無を言わずに貸す)」という一見美しい思想も、「ノー(トラブルの元・貸さない主義)」も、イマイチだ。自己満足や自己防衛は出来るが、「友人のため」にはいずれもならない。
⇒まずは「なぜ金が必要?どう使う?」を問う。その答えが友人を健全/魅力的にすると信ずれば「イエス(あなたのxxを応援したい!)」、そうでなければ「ノー(あなたのためになるとは思えない)」だ。

その他、「みなさん順番に待って頂いているので…」「今回だけおまけします」「平和に割り勘にしよう」「みんなでこうするって決めたので」等々、一見平等に見えるものも自己満足/自己防衛にしかなっていない。
実際の「イエス」「ノー」を阻害するものは、遠慮・忖度・恐れ・保身など自身の気持ちの弱さであり、相手のためになっておらず酷い時には裏切りや見捨てる行為にもなりうる。

「イエス」にせよ「ノー」にせよ、自分や所属する部門・企業の時間やお金を利用する「判断」をする行為である。この「イエス」「ノー」およびその理由が「何を優先し何を劣後するのか?」を決定している行為であり、「イエス」だけが相手へのやさしさで「ノー」だけが勇気がいる行為なのではない。

安易に「イエス」を繰り返しムダな仕事や無謀なチャレンジを繰り返さず、またやみくもな「ノー」で大事なチャンスや重要な仕事を放棄することなく、正しく冷静に思考された「イエス」「ノー」で相手のためにも自分のためにも良き状態をみなが作れるようになっていくことを願いたい。

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