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「本の世界をめぐる冒険をめぐる」

 
 キャラメル・マキアートの甘いぐるぐるがミルクの泡の海へ刻一刻と沈んでいくのを気にしながら、マンハッタンポーテージの黒いリュックで陣取ってあった壁際の席へ小さなトレーを置いた。奥にある四段昇った広いスキップフロアには、天窓から差し込む光がスポットライトのように床と本棚とにコントラストを与えている。
「自然科学、四。ええと、天文学・宇宙科学、四四〇。ここだ」
目当てのコーナーへ入り、一番大きくて分厚いオールカラーの写真集を人差指と中指で引っ掛けて棚から引き出す。席に戻りキャラメルの無事を確認してからジョバンニは大型本を開いた。
 霧のような、渦のような、雨雲のような、稲妻のような、ペンキをぶちまけたような、ページをめくるたびに、思いもよらない色と形で飛び出してくる銀河や星団、星雲の写真。カフェのテーブルに収まりきらない見開きの写真は圧巻だ。この中の一番小さな点ですら太陽系は足元にも及ばない。地球はいずこ。ぼくは本当に存在しているんだろうか。自分の手のひらを眺めて、ぼくの細胞、DNA螺旋、原子、電子、素粒子、そのひとつひとつも宇宙なんじゃないだろうか。こうやって頭をくらくらさせるのが、ジョバンニは大好きだった。
 午後五時に図鑑を棚に戻し、カップとスプーンとトレーを片付けた。川沿いにある印刷所で一般の人向けに活版印刷のワークショップをしている母の職場へ向かう。最後の枠のグループが銘々あれやこれやと金属の文字を拾っている作業を見守る母に、テイクアウトで持ってきたホットミルクを渡す。
「今日は涼しくてお祭りにちょうどいいねえ。九時までには帰っておいでね」

 小さな神社で行われる祭りだが、街の人たちはここぞと浴衣を着て賑わいを見せる。氏神さまに感謝を示す灯りを片手に持ちながら、夜店を巡ったり、灯篭の下でおしゃべりしたり、脇に逸れたところで花火をしたりする。昔は境内に咲くカラスウリの中に、小さな小さなアルコールランプを入れたものを職人が手作りしていたが、今はLEDライトの入ったまあるいクルミ型のプラスチックで代用されている。チカチカと瞬くように改良されていて、モールス信号で「ありがとう」を繰り返している。このアイデアは、漁師だった曽祖父を慕っていたジョバンニの父によるものだ。

 鳥居が連なる階段の下で、クルミのランプを二つ持ったカンパネルラがジョバンニを待っていた。
「青白いのはすぐなくなってしまうから、ぼく貰っておいたよ」
夜空の星のようだからと、ジョバンニは小さい頃からほんのりかすかに青いランプがお気に入りだった。
「きみのは今年も赤いね」
「さそりの火は優しい火だから」
 石の階段を上って行くと、大学生の有志のバンドがアレンジした祭囃子がだんだん大きくドコドコと聞こえてくる。夜店を見て回って鳥の形の飴細工を買った。店のおじさんはこっちは鶴だのあっちは鷺(サギ)だのと熱弁してくれたがよく分からなかった。祭りの賑わいが少し遠くなる本殿の横に腰かけて、iPhoneで検索をしてみる。
「これはアオサギなのかな。シラサギなら鶴と似ていないのにね」
二人でくすくす笑っていると、本殿の裏手のさらに奥、黒い林の中にジジジッと明かりが灯った。他の夜店の黄色い照明とは違って、青や赤や緑のネオンライトが入り乱れている。ジョバンニとカンパネルラは顔を見合わせてから駆け出した。近づいてみると移動販売用に改造されたクリーム色のワーゲンバスだった。サイドとトランクの扉が開け放たれていて、なんだか箱型のヴィレッジバンガードみたいなごちゃごちゃとした店だった。助手席の窓にはひときわ大きいネオンライトがでーんとぶら下がっていて、「BOOKS」とのたくっている。
 古本、ラジカセ、くるくると丸めた茶色い紙、ビーズ、地図、化石、レコード、初代マッキントッシュ、ポスターや絵画、楽器、何かの部品、他にもなんだかよく分からない物が車内に収まりきらず、脚の低い色んな形の椅子を台にして、あちこちにとにかく積まれていた。
「こんばんは。ここは良い場所だね。そのクルミ、なに? 僕も欲しいな」
サイドドアのカウンターにぶら下がった紐の束をかき分けて、男の人がにょっきり顔を出した。
「へえ、神さまにモールス信号を送ってるんだ。面白いお祭りだね」
ワーゲンバスから出てきたのは、背の高い、澄んだ声のよく通る人だった。
「ここは本屋さんなんですか?」
とカンパネルラが尋ねると
「うん。そうだよ。だって本しか置いてないでしょう?」
と不思議なことを言う。
「今日はね、ちょっと特別な本を持ってきたんだ。お祭りって聞いたから、クジみたいなものかな。ぜんぶ当たりだけどね」
「そうだ、クルミと交換しよう。二つと二枚。はいどうぞ」
差し出されたのは四つ折りにした若竹色の紙だった。開いてみるとQRコードが印刷されている。iPhoneを取り出してカメラに切り替えた。
 カメラのピントがQRコードをとらえた瞬間、二人は真っ白な光に包まれた。
「きっと楽しい冒険になるよ。いってらっしゃい!」

 タタンコトン、タタンコトン、タタンコトン。いつから乗っていたろう。車窓と平行に伸びたえんじ色の座席はお尻にすっぽり馴染んでいる。向かいに座っているカンパネルラの背後の窓の外は、街灯からずっと離れた場所のような心もとないぼんやりとした暗がりだった。ジョバンニとカンパネルラは座席に膝をついて外を眺めた。
 あちらこちらに大小さまざまな光の塊が、浮かんでいたり、平たく並んでいたり、泉の溢れるように流れたりしていた。遠くの光は雲のようにふんわりと、また星のように強く明るく、何本かの筋はゆらぎ、あるいはほうき星のように弧を描いている。静かに進む電車は時々その光の近くを横切って、光は車両の後ろに流れていくのだった。よくよく見てみるとその光は「1」と「0」の集合体だった。目が慣れてくると塊の他にも「1」と「0」は単体でも沢山ふよふよと漂っている。
 「ぼくたち、ネットワークの海の中にいるんだ」
「うん、きっとそうだ。この記号も、なにもない空間も、ぜんぶが情報なんだ」

 しばらく黙って外を眺めていると、電車がゆっくりと停車した。振り返って車内に目を向けると車両のドアが一つ、控えめな銀色のすべすべした扉に変わっている。「ここに触れてください」と書かれたねずみ色のセンサーにジョバンニが手を近付けると、プシューッと扉が開いて女の人の顔が現れた。頬杖をついてこちらを見ていて、奥には唐草模様の壁紙や家具やランプが見える。ジョバンニたちと女の人との間には、文字が並んだ薄い壁があるらしかった。アルファベットみたいだけれど知らない文字も含まれていて、ぜんぶが鏡に映したように反転している。
 「あら、小さなお客さま。こんにちは」
「こんにちは」
「そこは、お姉さんのお部屋なの」
「そう。モスクワ大学の近くのアパート」
「ドストエフスキーをタブレットで読んでるところなの」
カンパネルラが透明な壁をコツコツと叩くと、女の人も笑ってカツカツと爪で画面を叩いた。ジョバンニは二人のやり取りを見ていると妙に胸が切なくなって
「あんまり読書の邪魔をしちゃ悪いや」
と言って銀色の扉に手を伸ばした。
「さようなら、小さな旅の人たち」
「さようなら」

 「こんなにゆっくり進んでいるのに、ぼくたちロシアまで走ったろうか」
「ここはネットワークの海だから、どこにだって繋がっているんだね」
二人並んで電車に揺られていると、またどこかに停車したらしかった。今度は濁ったガラスのはまった木枠の引き戸が現れた。ガラガラと戸を開けてみると口髭を整えた男の人が眉間にシワを寄せている。奥の畳や低い机の上に本が乱雑に積み上がっているのが見えた。ジョバンニたちと部屋の間にはやはり透明の壁があって、そこには反転した縦書きの明朝体が並んでいる。
「(あっ、夏目漱石だ)」
髭を触りながら
「旅人かね」
と眉を上げて覗き込んでくる。顔が近づくと眉間のシワがいっそうよく見えた。
「はい」
「学生かね」
「そうです」
「ロンドンよりずっといい留学だろう。日記をつけなさい。うん、胃薬を取りに行かなくては。効きやしないがまあ飲んで毒でもない。医者の懐には良薬だろうね」
しばらく一人でぶつぶつと言ってるうちにパタンと本が閉じた。

 「驚いた、ぼくたち明治時代に行ってしまったの」
「紙の本とも繋がっているんだね」
「距離も時間も、なんにもないや」
「違うよ。距離も時間もぜんぶあるんだ」

 タタンコトン、タタンコトン。外は先ほどから雨が降っていて、「1」と「0」が車両に合たってカラカラと音を立てている。雨足が強まってくると、窓に横書きの文字がどうどうと流れてきた。やはりすべての文字が反転している。
「twitterの川だ!」
「はやすぎて追いきれない。いろんな言語があるね」
「あっ、今の日本語かな」
「ぼく見つけられなかった」
川は、はるか上からとぎれることなくどこまでもどこまでも下へ続いている。嵐から抜け出して静かになった車内から後ろを見るともうずいぶん離れていて、見えるのは一本の光る葦(あし)だった。広い広い海の中、散見される幾本かの葦もおそらくfacebookやInstagramなどのSNSだろうと思われた。

 ふいに、ノイズの混じったややがさついた車内アナウンスが流れてきた。路線案内でも停車駅の知らせでもなく、それは音楽だった。竪琴の音色と共にジョバンニとカンパネルラに語りけてくる。

「古より伝わる、心震わす歌と調べ。
旅の人、どれほど待ち望んだだろう。
私のリラに集まる、人々と共に。
過ぎた日々と、過ぎ行く日々を、
確かに繋ぎ、結ぶ、旅の人。
私の歌は、今、揺るがぬ意味を得た。
本当の幸いは、まさに、ここにあるのだ」

耳を傾けていた二人がなにか言おうと口を開きかけた時には、アナウンスの通信はもう落ちていた。歌い手は一人だったけれど、じっと聴き入る人たちの存在が、不明瞭なスピーカーの向こうにひとりひとりの顔が浮かんでくるように感じられたのだった。

 ジョバンニとカンパネルラは胸がいっぱいになって、自分の膝とつま先を見ていた。先に言葉を漏らしたのはカンパネルラだった。
「ロシアのお姉さんと、夏目漱石に会ったろう。それでぼく、あの本屋さんのとこから本のネットワークに来たんだって思ったんだ。でもツイッターがあったり、大昔の音楽がぼくらを見ていたりした。うまく言葉にできないけれど、それでもぼくはね、ここはやっぱり本のネットワークのような気がするんだ」
「さっきの歌で、幸せについて歌っていたろう。あの人はぼくたちが電車の中で座って聴いているだけで『本当の幸い』を見つけたんだ。ねえ、それって、伝えたいことを伝えて、それがちゃんと伝わることじゃないかな。人と人とが、今みたいにこうやっておしゃべりするのも、ぼくは幸せに思う。おしゃべりの他に誰かと繋がる方法、きっとそれをぜんぶ本って呼ぶんだよ。ここは本のネットワークじゃなくって、このネットワークが本なんだよ」

 「ふむふむふむ、ふむふむ。ちいと珍しい旅人かもしれん」
びっくりして二人が振り向くと、背を向けていた側の車両のドアと窓がぜんぶ開いていて、そこにはひげもじゃのおじさんが、反転していない文字の壁の向こうで笑っていた。レオナルド・ダ・ヴィンチ。彼は旅人が自分のノートへ来るのをいつも楽しみにしていて、旅人が読みやすいように文字や図形を鏡文字で書いていた。
 「短い旅でよく見極めたものだ。その通り、あらゆる情報の伝達手段は本と呼ぶことができる。そこに友人との幸福を見たきみらは、ずいぶんロマンチストなのかな?」
「いいえ、喜びだけでなく、怒りや、悲しみなんかの負の感情だって、伝えたいと思って伝わったなら、それも幸せのうちです」
「うむうむ。本当に珍しい者たちだ。わたしは旅人に軽い助言をして送り出す役割を担っているが、きみらには不要のようだね。とは言え、見送るには早すぎる。本について、共にさらに深く考察してみよう」
 レオナルドは、文字の起こりや記録媒体の発展の歴史などを鏡文字のスケッチを交えながら二人に語った。
「人間はね、種の保存としての時間の流れとは別に、過去と現在と未来という時間の捉え方をする生き物だ。そしてそれぞれの尊さを知っている。だからこそ現在を繋ぎとめたいと感じるのだ。離れた場所や時間へアクセスしたいと欲するのだ。その時々の技術や環境によって伝達の手段は変化するが、根底にあるものは太古からなにひとつ変わっていないし、またこれからも変わらないんだよ。それが『本』だ」
「きみらはきみらの時代で、本と人とを大切にしなさい」

 レオナルド・ダ・ヴィンチの部屋を後にして、ジョバンニとカンパネルラは今すぐに帰りたいと思った。家族や友だち、祭りに来ていた人たち、会ったことのないたくさんの人たちをとても愛おしく感じていた。
 するとあたりの「1」と「0」がどんどん濃くなっていって、電車はついに大きな光の塊の中心で停車した。ひとつのドアが音もなく開いて、その向こうには竹林が広がっており、雨上がりのさっぱりとした日光が竹をつやつやと光らせている。林の中からこちらへ歩いてきたのは、ワーゲンバスの男の人だった。手を振りながら近付いてきて
「さ、そろそろ帰っておいでよ」
と言った。その瞬間、竹林も電車も男の人もジョバンニとカンパネルラも、真っ白な光に包まれた。

 ジョバンニはキャラメル・マキアートの最後の一口を飲み終えて、貸し出しカウンターへ図鑑を持って行った。神社の階段の下で待ち合わせたカンパネルラと鳥居をくぐっている時、カフェ併設図書館からずっと胸を行き来するなんともふわふわ落ち着かない気持ちがぽつりと漏れた。
「ぼく、さっきね、三分ほどが永遠に感じられた」
「うん」
「きみと一緒に居た気がする」
「うん、ぼくもそんな気がする」

 飴屋の夜店で鳥の飴細工を選んでいると、店のおじさんが鶴と鷺(サギ)を勧めてきた。
「おじさん、これはアオサギだろう。鶴と似ていて区別がつかないよ」
「どうしてシラサギにしなっかたの」
「シラサギはぜんぶ売れてしまったんだよ。きみたちよく知っているね。学校で習ったかい」
「ぼくたちどうして知っているんだろう」
二人で首を傾げながら飴を舐めて、本殿に一番近い灯篭の下に座った。ジョバンニはマンハッタンポーテージの黒いリュックから宇宙の図鑑をずぼりと引っこ抜いた。
「すごく綺麗でどうしても見せたくて、持ってきたんだ」
カンパネルラは口をすぼめて微笑んで、アーツ&クラフツの青いトートバックを肩から下ろした。すっと取り出したiPadで立ち上げた電子書籍は『ヴォイニッチ手稿 - 完全図版集』。
「すごくわくわくするから見せたくて、持ってきたよ」
 二人で宇宙の写真をめくって感嘆したり、ヴォイニッチ手稿の不思議な文字やスケッチを見てあれこれ話したりしていると、幼い兄弟が近づいて来た。ジョバンニとカンパネルラが交互に語って聞かせると彼らは目を輝かせて
「これはなに?」
「こっちは?」
と楽しそうに続きをせがんだ。そこに別の子どもたちがやって来てわあわあ声を上げると、みるみる人が集まって、そうするとなにかの催しかと思った大人や子どもやバンドの学生も次々と加わり、もう実際にジョバンニとカンパネルラによる即興のトークイベントに変わったのだった。

 本殿のそばでいかにもつまらないといった顔をして、ザネリとマルソは言い捨てた。
「なんだい、本だの図鑑だの、学校だけでうんざりだろう」
「そうだよ。あっちで花火をしよう。本よりずっと楽しいよ」
不機嫌をめいっぱいまき散らしていたけれど、本当は、仲間に入りにいくとなにかに負けてしまう気がして、胸を思い切り張ってみるのだった。
 二人が暗がりを求めて本殿の裏手へ回ると、林の奥にジジジッとネオンライトが灯った。訝しげに近づくザネリとマルソに、開店準備をしていた背の高い男の人が笑顔で声をかけた。
「こんばんは! いいお祭りだね。僕もさっきクルミを二つ貰ったよ。赤い方はさそり座のアンタレスみたいにきれいだ」
「さてと、今夜の目玉商品はクジ引き。さあさあ、一枚ずつ引いてみて」
真っ直ぐな眼差しで箱を差し出された。勢いに押されたのと、好奇心とさっきの不機嫌とがごちゃ混ぜに渦巻いて、ザネリとマルソはえいやっと箱に手を突っ込んだ。四つ折りにされた若竹色の紙が二枚、出てきた。

 「大当たりー! いざ、ほんとうの本を探す冒険へ! いってらっしゃい!」
林の中に一瞬、真っ白な閃光が走った。




おわり。

このお話は、6次元店主であり、わたしの文章の師匠、ナカムラクニオさんの新著を元に書き始めました。
NHK出版「学びのきほん 本の世界をめぐる冒険」』は、そもそも本ってなに? と本を定義するところから始まり、本の歴史を丁寧に振り返り、さらにこれからの本の姿を探してゆく、まさしく「冒険記」です。
ナカムラクニオさんが手を引いて本の名所を案内してくれるような構成と文章運びで、読者は「ほんとうの本」を見つけることができます。本好きの方はもちろん、現在の本の現状を憂いている方にもおすすめしたい一冊です。

わたしはこの冒険記をガイドブックとして携えてMacBookに向かい、二人の少年が冒険をするお話を書きました。教養本から創作をするという初めての体験で、とても楽しかったです。このお話にタイトルをつけてくれたのもナカムラクニオ先生でした。ありがとうございます。


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