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宗教と違う、瞑想修行の凄さ

では、ディクシャを拝受し
本格的にマントラ瞑想の修行が始まってからの
ことを書かせていただきます。

ヨグマタジの元で行う修行が
従来の宗教と全く違うということの一つは
日々、マントラ瞑想を実践していくということ
だと思います。

マントラ瞑想は、
ヨグマタジのエネルギーと繋がって、
その安全な状態で
自分の奥深くまで入って内側を見つめ、
自分の中にあるネガティブなものを
積極的に浄めていくということです。

普通はそれを浄めていくことなどできないので、
そのネガティブなものが表出し
日常生活に支障を来すようであれば、
精神科などでは、そのネガティブなものを
薬で抑え込んでしまうとか、
心理療法で、ポジティブに捉えられるよう
記憶の書き換えや置き換えをしたり、
別の対象に注意を向けながら、慣らして行くとか。。
稚拙な言い方をすると。。ごまかしたり。。

でもそれは、そのネガティブなものを
どこかにしまい込んでしまって
見ないようにしているに過ぎないと思います。

それを根本から消すことは
人間である私達にはできないと思います。

そして、抵抗力の衰えた時や年老いてからなど、
後々になってまた顔を出して来て
同じことを繰り返すことになったり、
さらにひどくなっていたり。。

精神科の医師達も、一生懸命に
症状を良くしよう
治してあげたい
楽にしてあげたい
という思いを持って
それぞれ、様々な治療法を試みて下さっていると
思います。

ただ、現場で実際に治療にあたっている医師ほど
その限界を強く感じておられると思います。

実際に精神科医であるサイエンスの会員さんも
そのように話しておられました。

やはり、人間である私達ができることというのは
神の御業には到底及びません。

日常生活に支障のないような、健康な人であっても
この何生もの何生もの生まれ変わりの中で、
膨大な、「ネガティブなもの」≒「悪いカルマ」を
身につけてしまっているのです。

私達をつくるエネルギーは同質のものを引き寄せる
という性質を持っているので、
その人の身についた悪いカルマは浄化されるまで、
繰り返し繰り返し同じような現象を
引き起こしてしまうそうです。

「何故か同じような悪いことが起きる」とか、
「傷付くと分かっていて、何故か
似たような異性に惹かれてしまう」とか、
そういう体験をされたり、話に聞いたり。。
されたこともあるのではないでしょうか。

プチストレスと言われているような
顕在意識が忘れているようなものでも、
全て宇宙に記憶されていてカルマとなります。

精神科に通院するほどの重い症状はなくても
私達はそのストレスを解消する為に

美味しいものを食べたり
お酒を飲んだり
旅行に行ったり
ショッピングをしたり。。

そしてまた次のストレスに出会い。。

同じことを繰り返している状態とも言えるのです。

分かっていただきたいのですが、
その生活がダメだと言いたい訳では
もちろんありません。

私も今でも
食事や買い物を楽しむことがあります。

それができることにも、感謝しています。

ただ、成熟期を迎えたと言われる今この時代に
(スピリチュアルの世界では風の時代とも。。)
さらに本質的な生き方ができるようになった
ということを、みなさんにお知らせしたいのです。

ヨグマタジが
ヒマラヤから降りて来られるタイミングも
神様の完璧なお計らいなのだと思います。

今まで楽しんでいた生活に加えて
さらにストレスの全くない生き方、
全ての悩み、疑い、不安、心配を解消して
幸せになって、自分だけではなく
みんなの幸せを願い、平和を願い生きて行く、
そんな生き方ができるような時代になったのです。

自分が神様からいただいた愛を
周りの人みんなに
シェアして受け取っていただいて、
自分もまた愛をいただいてしまうという、
愛の循環が生まれるのです。
そんな、エコで優しい生き方ができるのです。


私も修行を始めるまでは、
自分の生き方に疑問なんて一つもなく
色々前向きに捉えて、幸せに生きていると
思っていました。


。。ディクシャで
ヨグマタジの「本当の愛」に触れ
瞑想することで。。
私のハリボテでできたような偽物の愛は
ものの見事に、ボロボロと剥がれ落ちた。。
と、いうような感覚です。
本当にまさに神業なのです。



ディクシャを拝受した頃、
結婚前に勤めていた高齢者福祉施設での記憶が
ずっと頭の中で、何度も何度も反芻されるように
なりました。

そこで私は
大きめのグループのリーダーを
任せていただくなどして、
それなりに、組織の役に立っていると
思っていました。

他のスタッフやご利用者様との信頼関係もあり、
良い職員でいられていると思っていました。

。。でも、その反芻の中で突然

全然違ったと気が付きました。
私に悪気はなかったとは思いますが、
無知でした。勘違いでした。
ほんとに全部と言っていいほど、
ほとんどがエゴの心でした。

私はご利用者様の幸せの為に
がんばって仕事をしている、と思っていました。
違いました。
良い人、良い職員だと思われたいから、
がんばっていました。

優しい職員のふりをして
介助がいる人達を見下していたと思います。
そういう人達に手を差し伸べて、
「優しい自分」に満足していました。

気持ちに寄り添うような話し方をして、
結局、こちらの言い分を通していました。
本当の意味で寄り添ったことなど
ないのだと思います。

良い職員のように振る舞って
結局、不平不満だらけでした。

突然それに気付いて愕然としました。。

でも、そんなこと全部お見通しで
ディクシャで無条件に私を愛して下さった
ヨグマタジの記憶がありました。
それは私の良いカルマとなっていました。

私はそれに救われたと思います。

それなしで、そんなことに気が付いても
どうしようもないのだと思います。

だから、私は長い間
自分の奥深くにそれをしまい込んで
見ないようにして、他の楽しみを見付けて
自分は幸せだと、思い込んでいたのだと思います。

神様に、ヨグマタジに、
愛されていると実感できるようになったからこそ
いらないものが見えたのだと思います。

私は
虚栄や偽善を繰り返す生き方を
したくありません。
。。しないようにと、願っています。。


今ももちろん修行中で、
初めてのディクシャから
どれだけのものをヨグマタジに
見せていただいたでしょう。

両親とのこと
子供とのこと
夫婦のこと
友人とのこと
職場でのこと
幼い記憶
過去生の記憶
宇宙全て。。

私の中は「虚栄」や「偽善」だけじやなくて、
浄化しなければいけないネガティブなカルマが
山積なのです。。
積極的に浄め、良いカルマを積むことが大切だと
ヨグマタジは何度も何度も教えて下さいます。

私達の「魂」≒「本当の自分」は
何生もの生まれ変わりで
曇ってしまっているそうです。
私達は本当の自分に出会うまで、
魂についた曇りを
玉ねぎの皮をめくるように、
一枚一枚剥がしていくのだそうです。


目がそれ自身である目を見ることができないのと
同じように、
対象物と自分が一体となっている間は、
対象物を見ることができないのです。

自分の中にネガティブなものを見て
愕然とするのですが、
それが見えたということは、
自分と一体だったネガティブなものが
自分と離れたということです。

ネガティブなものが見えたら、
反省して、感謝して、手放して
さらにヨグマタジの方へ
進んで行くということだと思います。

確実に浄化を起こして下さっているのでしょう。
軽くなります。

そして。。それなりに良い人間だと思っていた自分が
こんなにも曇っていたと知ることができて
良かったのです。

今まで、嫌な人だなって思ってた人達と
自分がなんにも変わらないということが
分かったからです。

周囲から嫌われたり
やっかいもの扱いされている人や
自分が苦手だなぁと思っている人
その人達と私は何も変わらない。

私はネガティブなものを持っているのに
自分自身でさえも騙されるくらい
「姑息に」「巧妙に」
良い人を演じて、人から嫌われないようにして
何食わぬ顔で幸せそうに生きて。。

むしろ、嘘をつけずに正直に自分を出して
嫌われている人達の方が「美しい」とも
言えるんじゃないかと思うほどです。

結局、比べることは出来ない
神様は平等にお創り下さったということに
落ち着くのですが。

全部、自分の内側が外側に現れるのです。

自分がこれだけ曇っていると知って、
もう他の誰も責められないと思いました。

それを教えていただき体験することで、
今まで許せなかった色んなことが
受け入れられるようになります。
理性で、相手の至らなさを上からの目線で
「仕方ない。許してあげよう」
と許すのではなく、
その至らなさと何も変わらない
自分の内側の姿を
見せていただいていることを知り、
心の底から感謝して、反省して、
同時に自分も許し、
受け入れられるようになるのです。

普通では無理だと思います。
でもヨグマタジが、
あまりにも至らない私に
そんなことおかまいなしで
あり得ないほどの深い愛を
注ぎ続けて下さるからできるのです。

本当に自分に必要な学びも全て、
全部自分の中にあると分かると思います。

ここに書き切れない、神の緻密な完全性を
皆さんにも体験していただきたいです。

それを見せていただいて、
ヨグマタジが「本物か偽物か」なんて
私にとっては論ずるに値しないのです。

最後までお読み下さり、ありがとうございます。


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