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【掌編】サイダー

 青。空の色、海の色、幸せの鳥の色。ママの髪の色。
 ママの青い髪が好きだった。ママは私を自転車の荷台に乗せて、いろんな場所へ連れて行ってくれた。肩まで伸びたママの青い髪。風に揺れる様を後ろから見つめ、時々触れたりしていたずらする。ママはそんなことで怒ったりはしなかった。ママが怒るのは私が汚い言葉を使った時だけ。例えば
「クソババア」
 なんて覚えたての汚い言葉を使った時は、私の大切にしていたウサギのぬいぐるみをライターで燃やされたっけ。
 私には汚い言葉を使うなと注意するくせに、ママはよく汚い言葉を使っていた。家賃を催促に来た大家さんと揉めている時は特に。
 汚い言葉を使ってばかりのママだけど、私の前だといつも上機嫌だった。よく抱きしめてくれたし、頭を撫でてくれたし、それに一緒にダンスもしてくれた。
 ママはジェニファー・ロペスが好きで、音楽をかけると自然と歌い出すし踊り出す。真似をするとママは喜んで私を抱き上げ
「あんたは世界一かわいい」
 なんて褒めてくれた。
 パパはいなかった。だけど私にはママだけで十分だった。ママが笑ってくれる、それだけで毎日が輝いていたから。
 だけど、それはいつまでも続かなかった。
 六歳の夏。
 ママはいつものように私を自転車の荷台へ乗せて出かけた。見慣れない風景が続いた。それに、なかなか到着しない。夏の日差しが強すぎてシャツは汗でぐっしょり。ママのシャツだってそう。
「休憩しようか」
 ママはコンビニで自転車を停めると、サイダーを買った。ペットボトル一本のサイダーを二人で分け合って飲む。ジュースだってお菓子だってママとはいつも二人で分け合っていた。それが当たり前だった。
「残りはあんたにやるよ」
 ママはそうやっていつも多めに私に残してくれる。
 少し休憩をして再び出発した。また見慣れない風景がしばらく続く。やがて、嗅いだことのない匂いがしてきた。嗅いだことがないのに懐かしい不思議な匂いだった。
「ほら、見えて来たよ」
 ママが指さした先には眩い光が踊っている。それは太陽の光を反射した海の水面だった。
 初めて海を見た。テレビで見たことはあったけれど、潮の香りや生暖かい風や火傷しそうなくらいの熱い砂浜なんかは、実際に来てみないとわからない。穏やかな潮騒は、まるで両手を広げておかえりと言ってくれるママみたいだ。
「あんたをここに連れて来たかったんだ」
 そう言ってママは浜辺に腰を降ろし大きく息を吐いた。それがどういう意味なのか理解できなかった私は
「それより喉乾いちゃった」
 と答えた。
「じゃあ、あそこで好きなもの買ってきな」
 ママは海の家を指さして財布を手渡した。私が買ったのはサイダーだった。ペットボトル一本。
「二つ買ってきてもよかったのに」
 ママは笑いながら、私とサイダーを分け合う。
「ほら、あとはあんたにあげる」
 また多めに残してくれるママ。潮風に揺れる青い髪。ママの顔が隠れる。あの時、どんな表情をしていたのだろう。
 翌日、ママは姿を消した。代わりに、一度も会ったことがないママの姉だという女性が現れた。そして私をひきとり育ててくれた。髪は黒いし、汚い言葉は使わないし、自転車に乗るのは苦手。でもママと同じように優しい人だ。
 ママはどこで何をしているのか。いまだにわからない。
 ねぇ、私、ママと同じくらいの年齢になったよ。髪は青くない。汚い言葉は使わないようにしてる。サイダーは一人で飲むけど、いつか分け合える存在が現れたらいいな、なんて思ったりしてるよ。

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