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ムシケラ

 川沿いに続く桜並木。満開の桜は青空から降り注ぐ光で輝いている。砂の雑じった乾いた風が桜の花弁を散らし、私の運転する自転車のカゴに降り立った。
「一緒に通勤しようか」
 声にならない声で花弁に提案する。
「君の新しい職場、見てみたいよ」
 花弁が答えた。
「期待はしないでね」
「新天地じゃないか」
「そうだね」
 自転車のペダルを踏み込む。
 勤め始めて一週間ほどの新天地は、自転車で十分もかからない程の距離にあるファミレスだ。飲食店で働くのは学生の時以来である。経験があるといっても、もうあれから二十年ほども経過している。思ったように身体が動かず苦戦していた。
 大学を卒業して就職した会社に去年まで勤めていた。事務職だった。結婚をするタイミングを逃し、気づけば影でお局と呼ばれるくらいの年齢に達していた。
 前方のグレーのスーツを着た女性が振り返る。あの子とよく似た顔立ちをしていた。一瞬、胸が締め付けられるが、本人ではないことに気付き安堵する。
 去年のちょうど今頃、あの子が入社した。よく遅刻をする子だった。よく言い訳をする子だった。ミスの多い子だった。だけど、憎めない愛嬌があった。だから、周囲も厳しく注意することはなかった。私も当初はそうだったのだ。しかし、後輩の女子社員数人があの子に対して注意をしないのはおかしいと訴えた。そして、何故か私が代表して、彼女を注意したのである。翌日から、彼女は会社を休んでしまった。
 数日後、上司に呼ばれた私は、あの子に対してパワハラを行っているのではないかと疑われた。事の経緯を説明するのが面倒だったし、長年仕事をしてきた上司に信頼されていない私自身にも、問題があったのだろうと理解して、退職することにした。
 真新しい学生服を来た男子と母親が、桜の樹の下に並び、父親が写真を撮っていた。
 私にもし子供がいたのなら、あの男子学生くらいの年齢だろうか。なんて眩しい光景なんだろう。羨ましいのは母親だけではない。多くの可能性を持ったあの男子学生も。彼らには未来がある。希望がある。喜びがある。
 比べたら虚しくなるだけ。
 私は輝かしい彼らから目を逸らし、ただ桜を見ることに集中することにする。だけど、桜も眩しかった。あまりに眩しかった。
 私はこれからも眩しいモノから目を背けて生きて行かなければならないのだろうか。もしそうなら、私の世界は暗いモノばかりになってしまう。暗いモノばかりの世界で生きて行けば、次第にそれらに蝕まれて、私はきっと暗いナニカになってしまう。だから、目を背けてはいけない気がした。
「だったら、僕を見て」
 自転車のカゴに乗った桜の花弁が言った。
 一枚の桜の花弁くらいなら、目を背けずにいられそうだ。
「うん」
 新天地の姿が見えてきた。あのファミレスを新しい職場に選んだのは、日当たりがいい場所だったから。
 前の職場を辞めた私は、眩しいものを避け続けた生活を送っていた。暗いモノに蝕まれる寸前だったと思う。
 就職活動はうまく行ってなかった。年齢のせいもあっただろう。疲れた私は、あのファミレスへふらりと立ち寄った。日当たりがよかったので、窓からは多くの光が注がれ、店内は眩かった。ここにいたら、私も光を浴びて明るくなれるのではないだろうか。そう思った。
 眩く見えた就職先だったけれど、働き始めるとその眩しさは消えてしまった。思うように身体が動かず焦る。長年培ってきた仕事の経験なんて、ここでは何の意味もなかった。一回り以上年下のアルバイトの子に注意だってされる。役立たずだと思い知らされる。こういう存在って、ムシケラって言うんだっけ。
 ムシケラか。私は何故かほっとしていた。私はちゃんとムシケラだった。
 ムシケラだからか、新天地の同僚は私に対して何の興味も持っていないようだった。何故前職を辞めたのか、何故結婚していないのか、将来不安じゃないのか、誰も興味なんてないから、聞いてもこないし、説明する必要もない。
「ここが君の新天地なんだね」
 職場の駐輪場に着いた。
「そうだよ。日当たりいいでしょ」
 今のところ、それくらいしか自慢できない。
「日当たりがいいのは最高だよ」
 桜の花弁が風に舞い私の頬に触れる。くすぐったくて笑った。

#はたらいて笑顔になれた瞬間

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