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月とココア

 眠れない夜は、温かいココアを入れる。窓を開け、夜空を見上げながら飲むと気持ちが落ち着く。
 きっと、悪意なんてないのだ。ただ、あの人は正直なだけだ。
 どんなに努力しても手に入らないものがあった。それをあの人は持っている。羨ましかった。羨ましいと口にしたら楽だったのかもしれない。けれど、くだらないプライドが邪魔をしていた。
 あの人は、私がどんなに願っても叶わなかった夢を手にしているのに、私の事を羨ましいと言う。私はそれを素直に受け止めることが出来ない。同情して憐れんでいるのだとしか思えなかった。羨ましいと言われるたびに惨めになった。
 あの人はそういう人じゃない。
 わかっていた。結局、私を一番憐れんでいるのは自分自身なのだと。
 あの人は悪くない。だけど、あの人に会うたびに、自分自身の愚かさに気付かされる。辛かった。苦しかった。だから、私は、あの人に会うのを辞めることにしたのだ。
 こうやって、人との縁を切り続けていたら、いつか一人ぼっちになるのだろう。やがて、私の名前は忘れ去られ、名もなき老人となり、たった一人で死んでいくのかもしれない。
 今夜は満月だった。
 せめて、月だけは、私の名前を憶えていてくれたらいいのに。
 満月の縁が滲んでいく。青紫色の夜空と白い月の境目を、水を含んだ絵筆でなぞったように。
 ぽとりと何かがココアに落ちた。ココアの水面に映り込む満月があった。ゆらりと揺れる月は、私の目から零れ落ちるものの代わりなのかもしれない。そう思うと、愛おしくてたまらない。マグカップの縁を爪で叩くと月は震える。泣きそうな私の顔があまりにもひどいので、笑われているような気がした。
 私にもまだ、何かを愛でる気持ちが残っていたのだ。
 少しだけ安心した私は、ココアの水面に浮かぶ月に、ふうっと息を吹きかける。それでも月は消えたりしなかった。私に飲まれることを望んでいるのだろうか。
 それならばと、私はマグカップを口に運ぶ。
 ココアごと月を飲み干してやる。

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