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娘の様子〜1歳まで〜

 現在5歳になる娘のオタマが如何にして多動認定され、波乱万丈ライフを送っているか、これまでの経緯を交えて紹介してゆく。(トップ画は最近彼女からもらった手紙。小さくたたむので、折り目がとれない!)

 まだ新型コロナなど存在しなかった2016年、福岡県のある産婦人科でオタマは生まれた。緊急帝王切開ではあったが、アプガースコアに問題はなく、母乳もよく飲んですくすく育った。

 1ヶ月、3ヶ月と特に健診で指摘されることは何もなく、深夜の授乳すら1ヶ月すぎにはなくなった。よく飲み、よく寝る。順調そのもの。新生児育児、世間では大変って言われてるけど、ウチのコ楽勝じゃ〜ん。と、私も完全に調子に乗った。
 首すわり、腰座りは母子手帳の目安時期に一致したが、彼女は全くハイハイをしない赤子だった。
 今思えば、太らせすぎたんだと思う。母乳をいくらでも欲しがり、私もなるべく寝ていて欲しいから吸わせまくった。その結果、ハイハイには身体が重すぎたのか、お座りしたままお尻ズリバイの移動を始めた。
 お尻ズリバイは、当然ノーマルなハイハイより移動速度が遅い。だから、多動で活発な彼女の性格を知る由もなかった。

 そして、10ヶ月健診の頃。

 変わらずお尻ズリバイだったが、それにしても後追いらしいことをしないね?と私は思い始めていた。
 ビフォアコロナの世界なので、しょっちゅう児童館に行っていたが、地面におろした途端オタマは得意の尻歩きで玩具へ突進していく。場所見知り、人見知り、ほぼナシ。途中、私がいようが、トイレに立とうが興味ナシ。他の赤ちゃんがお母さんからこわごわと離れて探検しているのと、何か違った。


 それから、離乳食。まっったく進まなかった。色々工夫して一匙だけはねじ込めても、そこから先は断固拒否。とにかく母乳ばかり。

 私の名誉の為に言わせてもらうと、私は料理は好きな方である。
 離乳食のパンだってはじめは小麦粉から焼いたし、バーミックスで毎日野菜をペーストにして、私や旦那もポタージュ三昧で娘に付き合った。私や旦那の味覚が正しければ、娘の分は薄味なことを差し引いても、ごく普通の美味しい味のはずだ。
 なのに、オタマは気難しいウシガエルみたいな顔をして口を引き結んでいる。

 何とか人間の食べ物の味を覚えてもらおうと、手本を探して市販の離乳食コーナーを彷徨った。色々な離乳食の封を切ってはダメにすることを繰り返し、ついに食べられるものが見つかった。
 ひとつは和光堂の和風だしうどん、もうひとつはキューピーのたまごぼうろ。
 私は喜んで、クタクタに煮たうどんとボーロ(片栗粉と卵黄で作れる)を量産した。

 が!!食べない!!

 どうも、「和光堂の」うどん、と「キューピーの」ボーロでなければ駄目なようなのだ。

 仕方がないから、私は近所のドラッグストアをハシゴしてうどんとボーロを買い占めた。今考えると、ネットで箱買いすれば良かったのだが、そのときは箱で買ってしまうと自分の作った離乳食の負けを認めるようで、出来なかった。

 10ヶ月健診で離乳の苦労と苦痛を訴えると、一般的な栄誉指導と離乳食教室に回された。
 このときの離乳食教室で知りあったママ友とは今も交流があるから、そこへ繋げてくれた保健師さんに感謝はしている。調理実習の肉じゃがも美味しかった。

 でも、オタマ攻略の答えはその教室にはなかった。美味しい肉じゃがなら、彼女はもう何度も拒絶してきていた。
 発達ちゃんならではの味覚の過敏さが、母乳とうどんとボーロ以外を高い壁にしていたのだと思う。
 あの並外れた偏食は、私の離乳食のせいだけじゃなかった。叶うなら、あの頃の私に今すぐに伝えたい。そして箱いっぱいのうどんを置いてきたい。
 
 
 食事のときはあんなに口を開けないオタマだが、言葉は早かった。
 3ヶ月くらいから喃語でモニョモニョお喋りするようになり、結構長い時間話していた。話すように鳴くネコみたいな感じだ。
 で、今の意味ある言葉?話しかけてきてる?みたいのが9ヶ月くらいからチラホラ出て、10ヶ月健診時点では、はっきり意味がとれる一語文がいくつか出た。 

「ぼよ」→ボーロ
「あまんまー」→アンパンマン
「ぱい」→おっぱい

 初めての言葉でよくある「まんま」「かーちゃ」みたいな私への呼称はなかった。
 娘内順位でボーロに負けた私だったが、ま、おっぱい=私だし、と自分を慰めた。「まんま」も時として食事と親の意味を広く内包する。そう言うことなんだろう、と。
 それでもオタマの中で「ぱい(母乳>母親)」なのは、文脈から明らかだった。
 普通は「大好きなお母さんにおっぱいがついている」認識だと思うのだが、オタマにとって私は「大好きなおっぱいにくっついている人間」だった。

 愛着形成に失敗してんのかな、と薄々思った。教育学生時代に叩き込まれたボウルビィやらエインズワースやらが、頭の中であれこれ囁いてくる。
 健診の保健師さんは、お喋り早いですね、と褒めてくれ、目も合うし、よく遊ぶし大丈夫ですよ、と励ましてくれた。

 その後も言葉はどんどん出て、1歳すぎには二語文も出た。だが、向こうの要求や感想を一方的に話してくるばかりで、意思疎通できている感覚は薄かった。

 
 ただ、この頃までオタマは非常に扱いやすい赤ちゃんだったことも確かだ。
 偏食がひどく、私への興味は薄かったが、裏を返せば誰かに預けやすいとも言えた。私がどうしても子守できないとき、うどんとボーロ、おむつと一緒に送り出せば、誰にでもニコニコ微笑んだ。
 実際に預けたことはそんなに多くなかったが、いざとなったら誰かに代わって貰えるという安心は私の大きな支えだった。

 そして、まわりのお友達から遅れること数ヶ月。
 オタマは、お尻ズリバイを卒業して、二足歩行を獲得した。
 すると。 

 そこから、動く動く!!

 はじめはヨタヨタしたり、コケたりしていて、連れ戻すのは訳なかったが、すぐにダッシュへ移行。猪突猛進の脱走娘と化して、毎日本気の鬼ごっこモードへ突入した。
 1歳すぎから激しい癇癪も現れてきた。これでは他所様には預けづらい。

 それまで、悩みは偏食くらいで(それすら何れ母乳をやめたら何とかなると思っていた)、育児をナメていた私は、度肝を抜かれた。

 なにこれ、待って、こんなん聞いてない。ウチの子ちょっと強烈すぎん?

 子育て大変って聞くし、これくらい普通?今までがラッキーだった?みんな普通に乗り越えてる?

 ふたつの思いがせめぎ合った。せめぎ合いながらも、1日1日がサバイバルで深く考える暇もなかった。
 1歳半健診のお知らせをポストに見つけたのは、ちょうどそんな頃だった。

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 今回も、最後まで読んで頂きありがとうございました。
 
 尚、これはあくまで娘と私の記録です。もしお子様の発達障害が心配で、情報を集めたい方がご覧になっていたら、これは私たちの個別のケースであることを差し引いて読んで頂けると嬉しいです。
 偏食や言葉の出かたなど、健常なお子さんにも見られるでしょうし、発達障害以外に理由があってそうなる場合もあると思います。これらの特徴が、チェックシートのようにADHDを決定づけるものではありません。


 

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