【日記】20240213哀れなるものたち観に行った
映画『哀れなるものたち』を観にいった。とてもよかった。
死亡時に自ら身ごもっていた胎児の脳を移植され電気ショックで蘇生させられた女性ベラが主人公の映画である。この映画はベラが世界と自己を獲得するに至る物語だ。体は大人・頭脳は赤ちゃん、逆コナン君である。
そんなやべー手術をしたのはベラにはゴッドと呼ばれているゴッドウィン博士だ。彼は彼の父親から「実験動物」として苛烈な扱いを受けて育ち、自らもやべー実験に手を染めるに至っている。ゴッドウィン博士に選ばれて、ベラの観察者、そして彼女を愛する婚約者となるマックス。その婚約の契約書を作りにきた法律家ダンカンが、とんでもないスケコマシで速攻でベラを寝取りにかかるところから物語が動き出す。
「フランケンシュタインの花嫁」から着想を得たのであろうゴシックでスチームパンクな世界観が楽しい。細部までこだわっているのであろう美術とエマ・ストーンはじめ俳優陣の熱演が画面全体を強烈にまとめあげていた。
鑑賞後にTwitterでもろもろ検索をしていると、例のごとく「これをフェミニズムとは呼びたくない」「男性のまなざし」みたいな文言が散見された。もしも彼らが主人公のベラが、婚約者を差し置いて色男ダンカンと駆け落ちという名の冒険旅行に出かけることを、パリで娼婦をやっていたことを、単なる搾取であるとうけとっているのであれば、私がこの映画を鑑賞中に自分の中に見出した悲しさや希望の話なんて、絶対に一生したくないなと思った。
美しい女体の赤ちゃんであるベラは、ロマンスという情動よりも先に性器への刺激から得られる素朴な快楽を獲得し、その快楽に突き動かされるままに世界の探求を始める。スケコマシのダンカンは、「俺に惚れるとヤケドするぜ」みたいなことを言っていたのに、ロマンスを持たないベラに心底から惚れ込んで破滅していく。彼はロマンスが存在する世界で上手に生きていたから、性愛とロマンスの間に蜜月関係があると信じて疑わない。
ダンカンの発する嘆き悲しみと糾弾は、私がかつて様々な交際相手から受けてきた言葉に重なった。もう会えない彼ら彼女らの悲しそうな顔が、今でも忘れられない表情が、ポップアップする。性も愛もわかるのに、恋というものが上手にわからない(ということを、当人である私が理解できないでいた)ために、深く傷つけてしまった人たち。マーク・ラファロの泣き顔を眺めていたら、彼らのことを思い出してしまったわけだ。
この物語のナラティブがベラに最後まで「ロマンスの獲得」を要求しなかったこと、それでも彼女が「家族」らしきものを獲得して幸せに暮らしている結末が提示されたことは、私にとって本当に救いだった。(ラストにかけての、ベラの身体の元配偶者である将軍が現れるシークエンスについては正直蛇足だとすら感じた)
正しくないかもしれないから、という理由で「手放しでこの映画を褒めるわけにはいかない」という態度の表明をしている鑑賞者を見かけた。また、「こんなものはフェミニズムではない」と鑑賞を取りやめたという記事も見かけた。そんなことはどうでもいい。もしも、彼ら彼女らがどんなに「正しさ」をふりかざしたとしても、私が『哀れなるものたち』を鑑賞しながら希望を感じとったという事実だけは、絶対に誰にも奪われたくない。
(ヘッダーは公式サイト広報ギャラリーより引用)