認識の変更のヒントはドーナツ。私のなかに世界がある 。
完璧な世界があって、そのなかに「こうなりたい」「これはいやだ」と反応をしている自分(と思っているもの)が生まれた。
「まず完璧な世界があった。」
それを認めてみるとなんということでしょう、そもそも完璧じゃん、ということがわかります。
「なんだ、そうだった、思い出した!」という感覚です。エゴが言ってくることは全て嘘です。
本当は愛に溢れた愛しかない世界。
それを解釈して安全に生きようとするエゴ。
反応してしまうのは仕方のないことです。
でもそれは本当のあなたではない。
エゴと同化しないでください。エゴに振り回されても永遠に完璧な世界には辿り着けなくなっている。それがここからは丸見えになります。エゴがなんと言おうと「既にある」んです。
そしてもう少し突っ込んだところをお話すると、世界の中に私が生まれたわけではないんです。
私のなかに世界が生まれたのです。
(または完璧な世界だけがあったという言い方もできます。)
完璧な世界が。
この世界には戦争も殺人も、悪いことがいくつもおきているのに、どこが完璧なんだよと思いますよね。
しかし、生まれてきた赤ちゃんは何が起きても全てをジャッジしません。それは観念がなにもインストールされていないからです。まっさらの天使ちゃん。
まっさら天使ちゃんからするとこの世界は完璧です。
私たち大人は「こうあるべきだ」という思い込みと観念のフィルターを通して世界を見るわけで、それはそれは様々な感想を持ちます。
完璧な世界を作っておいて、「この世界のどこが完璧なんだよ!」と言っている。それもまた完璧なわけなのです‥笑
何度も言いますがジャッジをしているのはエゴです。
エゴがああだ、こうだと言わなければ世界は完璧でしかないわけです。
そんな完璧な世界を作り出しておいて、そのなかに自分という概念を誕生させて、自作自演の世界を楽しんでいるわけです。世界が始めからあってそこに私という赤ちゃんがポンと誕生したように感じていますが、真実の面ではそうではありません。真実は反転しているのです。
これに気が付いたということは、そうです。
認識の変更です。
「なんだよ、そうだったじゃん!」という感覚。なぜこれまで逆転した世界を信じていられたのかが思い出せないくらい不思議になります。
円の中に私がいるのではなく、私という円の中に世界があるのです。
二重丸を書いて、内側の円が私たちではなく、外側のの円が私たちなのです。内側の円が世界です。
そして私がいるという視点からの話し方をするならば、外側の円が私だった。ということです。
私はいないという視点からの話し方をするならば、世界しかなかった。ということです。
この辺の視点がごちゃごちゃになりやすいと思いますが、どこから話をしているかで言葉が変わってしまいます。しかし覚者はみんな同じことを言っていたのです。言葉にするからややこしいのに、言葉にしないと伝えようがないっていう。なんともややこしくそれでいて可愛らしい次元を今まさに楽しんでいます。
今日はこのへんで。
あめちゃんでした。愛を込めて。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?