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『風が生まれる』

奈津のママがこの春、やっと婚約した。

ママは、奈津が中学を卒業するまで、ずいぶん長いこと信さんを待たせた。おかげで奈津は、ふたりに、無邪気に文句を言うこともできないほど大人になってしまった。
駅のホームに続く長い階段をのぼりながら、奈津は自分が必要以上に歳をとってしまった気がした。

  
パパが死んだとき、奈津は五歳だった。小さかったけれど、パパが病院のベッドの上で少しずつ死に近づいていくのは理解していた。
時々は機嫌よく、また時々は少し弱々しく、パパは残していく娘の目を、深くのぞきこむように話していた。
そして、横にはいつも、パパの親友の信さんがいた。

今日、三人で夕ご飯を食べているとき、パパの誕生日が来週なのを思い出して言った奈津に、もう日にちも忘れてしまいそう、と、信さんの横でつぶやいたママを、奈津はたぶんパパの目と同じ深さでのぞきこんだろう。
ママが熱い味噌汁を飲み込む、ゴクン、という音がした。
目を外した奈津は立ち上がり、玄関の外に出ると、初夏の夜の匂いに包まれながら、駅までの道を走った。

今でも時折、奈津は用事もなくこの小さな駅に来る。
パパは元気なころ、休日に幼い奈津を抱っこして、よくホームのベンチに座っていた。
快速が通り過ぎる駅にはいつも、風が生まれる。一瞬で生まれてすぐに散り散りに流れていくこの風に吹かれるのが、パパは好きだった。
風は何度も奈津の前髪を勢いよく持ち上げた。そのたびに目を細めながら隣を見上げると、パパの静かな横顔がそこにあるのが、奈津は好きだった。

  
また一本、電車が通り過ぎて強い風が吹いた。薄汚れた電車の後部を奈津が目で追っていると、視線の端に信さんが映った。
ああ、この人のこういうところが苦手だ、と、奈津は思った。パパよりちょっとだけ年上のくせに、もっとどっしりしていればいいものを私にすごく気を使うところ。パパだったらきっと放っておいてくれるに違いないのに。

信さんは少し荒い息をしながら、隣にすとん、と、腰をおろして笑った。
「階段のぼったら息がきれたぁ。もう歳なんだなあ」
奈津はじっと前を向いていた。違う色の電車が行き過ぎ見送ると、またそれとは違う色の電車がやってくる。繰り返し生まれる風は、奈津に次々まとわりついて消えていった。
あとに残されたように浮かぶ月が、揺られてちりちりと光った。

  
奈津も信さんも、長いこと口を開かなかった。
目の前をほうきを持った駅員さんが通り、どちらに言うともなく、次にくるのが最終ですよ、と、教えてくれた。
「眠くなったから帰るよ、信さん」
奈津が横を見ると、目線の高さにいる信さんは重くなったまぶたを必死で開けようとしていた。それを見てゆっくり吐き出したため息は、思いのほか長い尾になり、奈津の胸をすうっと撫でた。

ぎこちなく並んで階段を下りながら、意味のない会話を始めようとしたとき、信さんが目をこすりながら、それでパパには会えたの?と聞いてきた。
まったく。この人のこういうところが苦手なのだ。もっと私に気をつかってくれたらいいものを。パパならきっと放っておいてくれるに違いないのに。
駅を出ると、ふけた夜のぬるい風を浴びながら、奈津は顔を上げて早足で歩いた。

  

  

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