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ゲーテと振袖

次女の成人式の振袖試着会で、年の初めから慌ただしい日々。

合間にちょこちょこ読んでいた本の冒頭の一文にヤラレた。

  ゲーテは言った。「人生とは速度ではなく方向」であると。

それな、である。


離婚をして、本籍を関東に移し、親兄弟とも決別し、雪も積もらないカラリと晴れたこの地にいる今。
私はどこに向かうんだろうか。
方向とはなに?

過ぎた日々とこれからの日々について、あれやこれや考えることが多くなった。
あの時あんなに頑張ったのに。
あの時あんな事まで言ってくれたのに。
なのに。
そんなふうに過去の記憶が不意に浮かぶ。

しかし私はもうこの歳になれば分かっている。
私の中に残っている記憶のカケラなど、誰の胸にもいっさい存在しないということを。

過去の記憶なんてそんなものだ。
見ているものが同じでも、思いが違えば風景はそれぞれに変わり、記憶はそれぞれに全くちぐはぐなものになってしまう。
後悔や呪いなど、取るに足りないものに対する無駄な時間だ。

過去に、そうだったからといって、それが今や未来を作るというのも、違う気がする。
過去には過去の私がいて、今の私は今だけの私だ。
一人の人生は、連なり繋がっているものかもしれないが、その時は、単に、その時のものだ。


人生とは速度ではなく方向なのだ。
時間では語れないという意味でもあるように思う。
私はどんな方向を向いている人間なんだろうか。どんな方向に居る私が本物なんだろうか。
この生き方で合ってる?今?


思えば25歳の時に、私は迷路に入ってしまった。
その時までに、したいと思っていた事を全てしてしまい、はて、これから何をしようか?どう過ごせばいいのか?と、放心したのだ。

夢を持って、目標を定めて、その実現のための道筋を描いて一歩ずつ!堅実に!という頭が、そもそも私にはない。
人生なんて出会いとタイミング、直感と決断。
だから経験が全てであり、その時々で起こる新鮮な感覚に、生のリアルさがあればいい。
そう思って生きている。

もちろん、そんなだから、やめとけば良かったよねということも振り返れば多々ある。方向が間違っていたな、と。
でも、だからこそのリアルな感覚を得られるのも確か。
間違いは、足を踏み外したわけでも、見当違いの道へ行ったわけでもなんでもない。歩いているのは何を隠そう一本道、私の道なのだから。それもこれも、別に全部自分の人生なんだし良くない?ってもんだ。


さて25歳で入った迷路は、それから倍以上の時間をかけて、そろそろ出口かな?と思っている。
私自身が出口で待ってくれていた感がある。

「そういえばあんた私だよね?そうそう、私はあんただったんだった」

したいと思ったことは全てしたと思っていたけど、まだまだあったね。
何を一生懸命生きちゃって、迷路を迷路とも思わず、世間のこととか顔にも似合わずバランス取ろうだなんて、ガチガチで歩いてたんだろうね。


いろんなことがシンプルになり、たくさんの物を切り捨ててみると、真っ白な朝靄の向こうに開けた出口が見える心持ちだ。
迷路に馴染んできてしまったから、少し、開けた明るさが怖いくらいの眩しさ。でもそれは迷路に入る前に居た、私の同じ道の上なのである。

人生とは方向である。

どちらを向くかではなく、今歩いているその道は一本道。どうしたって正しい方にしか行けない。どうしたって良い方向にしか行けない。自分だけの道だから。

途中で挫折を味わっても、八方塞がりだと思っても、それは足を踏み外して終了になったわけではない。リセットなんか必要ない。
支離滅裂な自分の物語は、大丈夫、ちゃんと一本の(美しい)道の上にあって、それは自分にしか見えていないものだ。自分の見えている世界をいつでも好みに捉え直し、ただ淡々と咀嚼して味わうだけでいい。


来年やっと成人式という娘に、こんな話をしてもなんだか無粋と分かっている。
だから何も言わないで鏡を一緒にのぞき込む。

「私に似合う雰囲気の着物ってどれだろう?」「これを着てどんな私になりたいんだろう?」
と言う娘に、あなたが好きなのはどれなの?というシンプルな質問だけ繰り返した。

好きなものは、いつでも分かっておくべきである。
あなたの「好き」、それがあなたの歩く一本道なのだから。

さんざん迷った末に羽織った一枚が、ストンと心に落ち、
ああこれだね、と決まる。
自分が見えてくる出会いの瞬間。

買うと60万もする吉澤の手刺繍入り振袖。
レンタルにてなんとか予算内に。






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