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『泡々の季節』

 掃除を始めると、ついつい時間をかけてしまう。

 それを始めたころには、えい、めんどうだ、この一部屋だけの埃を片付けてしまおう、と思う。一日のほとんどの時間を過ごしているこの部屋だけ、ささっ、と。
 それだのに、いったん掃除を始めてみると、ついでにここも、あすこも、と少しずつ手を広げては、一部屋だけささっと、というわけにはいかなくなってしまうのだ。

 掃除というものは、やればやるほど、やらぬ場所が気にかかるもので、そういう場所をじっと見てしまうと、後悔やら自責の念やら、そんな気分に押しつぶされそうになるから厄介なのである。
 そして、ついつい時間を過ごし、ついつい疲れ果ててしまうことになるのは、いつものことだ。

 畳の上を固くしぼった布巾でゴシゴシやっているとき、シュウジが眠そうにボソボソとつぶやいた。

「掃除なんか、いいのに」
「うん、でも少しだけね」
「少しだけか」
「うん。まあね」

 よっこらしょ、とシュウジをまたいで、窓とは反対の側の畳の上に手をかけた。シュウジが長い手足を伸ばすように寝そべっているので、その部分だけを拭くことができない。
 表面の汚れがとれたせいなのか、周りの畳の色が心なしか艶めいて見える。日に焼けてはいたが、薄く、青草に似た若い畳の匂いがしている。
 ふいに、掃除という日常の雑事のようなことを、ずっとずっと続けていたいと思った。疲れ果ててしまうことになるのをわかっていても、今は ”ついつい” 時間を過ごしてしまいたい。

 ここに住んで5年になろうか。日当たりのいい小さなアパートは、窓のついたキッチンと、トイレとお風呂と、押し入れのついた畳の部屋がふたつ。景色は何も変わらない。
 5年の間、わたしもシュウジも、本当のところ何も変わらないなあ、と思う。思ったけれど、ここの畳の色がこんなふうに薄茶色くなったのを見ると、やはり5年は確かにゆき過ぎたのだった。それだけ毎日気づかぬうちに、畳は日当たりよく焼けたのだから。

 そういえばいつからか、シュウジは煙草をやめた。いつからのことだったのだろう。それはやっぱり「変化」のひとつで、兆しと呼べるようなものだったのかもしれない。

「シュウちゃん、ちょっと」
「うん」
「さっと拭いちゃうから」
「はいはい」

 身体をねじるように動かしてずらしながら、またシュウジは何度目かになる、掃除なんていいのにさ、を、ボソボソと繰り返した。

 細く開いていた窓を、がらり、と大きく開けると、空は高いところでにこにこと微笑む。
 この土地は暖かい。知っていたので、お嫁にくるのが楽しみだった。寒いのに慣れっこになっている土地で生まれたわたしは、しかし、寒いのには慣れっこになれずに大きくなり、いつも暖かい土地で暮らすのを夢見たものだった。

 シュウジから、こっちで一緒に暮らそうと言われたとき、真っ先に思ったのが、暖かい光の中に暮らす自分の姿であり、かなった夢はずっと続いていくと思っていた。ずっと。永遠に。そう思うことは少なからず心地よく、だけれど半分は、なんとなくそら恐ろしくもあったのは何故だったのだろう。

「汗かいちゃった」
「がんばり過ぎだから」
「だって」
「そのへんで冷たいものでも買ってこようか」

 シュワシュワしたものが飲みたいとわたしが言い、ポケットの小銭を確かめながら、はいはい、とシュウジが出て行った。

 おおかた片付いて磨かれた部屋は、がらんとして見えておもしろくもないので、窓の側に立ってみた。坂のところにシュウジの後ろ姿が見える。半袖からのぞいている腕が、まだ、なま白い。夏が終わる頃には少しは色がつくのかしら。

 シュウジの腕は好きだ。男の人の腕は、いつもじゃないけれど時々、どうしても必要になるものだ。恋しくなるのとは違って、もっと切実に、必要になる。
 あのふたつの腕にくるまれてしまうと、いろんなことが帳消しになるのだから、まったくすごい。いろんなことを帳消しにすることは、時々どうしても必要になるのだから、わたしはあの腕が必要なのだ。本当は。まだ白い、初夏のシュウジの腕。

 マミコさんが初めてここに来たのは、もう3か月も前のことだ。
 泣いたり、あきれたり、ため息なんかついてみたりして、わたしにはあっという間の3か月だったけれど、マミコさんはあれからずいぶん変わったろう。

 シュウジと並んでわたしの方を向いて、畳の上で正座して、おなかをかがめながら頭を下げるので心配した。ある程度目立ってきたおなかを、そんなに折り曲げるようにして痛くないのかしら。突然、うっ、とか言って倒れたりしないかしら。
 会話の内容なんかこまかく覚えてないのに、そんなことを心配していた自分のことは、何度でも思い出せた。
 シュウジはずっとうつむいたままだった。顔も上げず、わびるような言葉ばかりつぶやいていた。ずるい、と思った。

 そのようにして、わたしは必要な腕を失ったのだった。もう3か月も前に。
 あの時、何かがシュウジの肩でひらり、と揺れた。
 紙片のようにも見えたけれど、すぐに薄桃色の花びらだとわかってからは、そこばかりに目がいってしまって困った。彼が短くつぶやくたびに、花びらはひらひらと蝶のように揺れていた。
 ぼお、と見ていたわたしに遅れて、マミコさんが花びらに気づき、次の瞬間、目にもとまらぬ速さでそれをつまんで放ったのを思い出す。それでわたしはまた、ずるい、と思ったことも。

 シュウジが買ってきたソーダを、氷を入れたグラスに注いで、畳の上にぺたんと座ったまま、ごくごく飲んだ。

「労働のあとの水はおいしいわあ」
「張り切るんだから。掃除なんていいのに」

 横に座ったシュウジの腕に、自分の腕をからませた。いつものように、なんだよ、と笑いながら振りほどくこともせずに、シュウジは何も言わずじっとしていた。そのせいで、なんだか何もかも遠く思える。すべてが、暖かいこの土地の高い空のように。遠く、清々しい晴れた空。

 腕につかまったまま、透明なソーダの入ったグラスをかざしてシュウジを見た。次々に生まれてくる泡の向こうに、白い腕のシュウジがいた。そうっと、できるだけさりげなく腕を離しながら、ふと思った。
 ずるいのは、わたしかもしれない。こんなにてきぱきと、出て行く家を磨いたりして。みんな泡になるのに。泡になって消えて、泡になって消えて、そして、泡になって消えていくのに。

「困ったことがあったら、いつでも電話しろよ」
「うん」
「遠慮しなくていいから」
「…はいはい」

 ソーダはすぐにカラになってしまったので、することがなくなった。どっと疲れが出てくるのを感じた。もうすぐマミコさんと、マミコさんの荷物が届く頃だ。そしたら入れ違いに出ていける。じゃあね、と、軽く出ていけるだろう。

 畳の上にだらしなく寝転がって、わたしはしばらく目を閉じた。だまったまま動かないシュウジの横で、夢がまだ続くような錯覚をおぼえる。
 ほどなく、窓の下で車のクラクションが短く2回鳴らされるのが聞こえた。立ち上がったシュウジの気配に、目をあけて身体を起こそうとするのに、なぜかわたしの身体はびくともしない。

「シュウちゃん…」

 寝そべったまま、無理やり手を伸ばしてみるのに、シュウジの白い腕はもう玄関の外に消えていった。
 汗ばんだ手のひらの上を、夏のはじめのゆるい風がフワリと通り過ぎ、グラスの氷がカランコロン、と、玄関の呼び鈴のように響いた。


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