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東、宇野、岡田、(大塚)とアフターシンエヴァの日々

また『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』についてつらつらと書く。エヴァについて考えると、語るべき内容がまとまらないので困る。が、この作品においては考えるまでのプロセスを公開し、それを読んでもらうことも大事なことだと思う。というわけで今回も長い。

友達と2回目のシンエヴァ鑑賞を終えた。が、1回目はあれほど胸にふるえるものがあったはずなのに、2回目はこれといって何も感じなかった。種明かしをされている分、情報がスムーズに入りすぎる感じか。洗脳が解けた後なんてこんなものである。

とは言うものの、同行した友達はオイオイ泣いていた。第3村の日々を音楽と一枚絵のスライドショーで表現するパートですでに泣いていたので、横目で様子を伺いながら「いや正直ここは特にアレな部分だぞ……」と思っていたのだが、最後まで泣きっぱなしだった。純粋な男である。それもいいでしょう。

結局、この記事を書いている今までヒマさえあればいろいろな人のシンエヴァ評を見ている。非常に多種多様な意見が出ているものの、だいたい内容の傾向が絞れてきた。

肯定的な評価の人間は3パターンに分類できて

・25年間の集大成として満足

・各キャラクターの最終章として満足

・制作陣の愛情に満足

否定的な評価の人間も3パターンに分類できて

・EOEに比べ不満

・キャラクターの扱いに不満

・作品を通して提示するビジョンに不満

僕は肯定する気持ちも否定する気持ちもよく分かる。それは「意図して方向づけられたバカ映画」という補助線を引いているからである。バカ映画だからこそ、否定的なニュアンスを全て肯定の理由に繋げられるというロジックだ。

が、公開後約1週間が経って分かったのだが、世の中の人は意外と「バカ映画」という文脈で今作を見ていない。感動している人はストレートに感動しているし、けなしている人はストレートにけなしている。2回目の鑑賞に同行した友達もストレートに感動していた。

いや、別に「俺は世間の誰にも迎合しない独自のスルドい目線で見ている!」とアピールしたいわけではない。しかし世の中の人々よ、例えば終盤の、エヴァを順番に槍で突っついて消していくあのシーンを見てなんとも思わんのかね。アレを見て「泣きました!」も「けしからん!」もおかしいだろ。

とは言え、この映画を見て他人がどう思うのかに対し、解説や説得でその考えを変えれるとは微塵も思っていない。この映画はエヴァンゲリオンと共に歩んできた25年間と鏡写しである。

ま、「鑑賞者の人生に評価が左右される映画ってのもどうなのよ」とは思うが。(いや、多かれ少なかれ鑑賞とはそういうものであるとも思う。今作においては、その振れ幅があまりに大きすぎるきらいがあるが……)

その中で、いくつか有名所の論者が語っているところを引用しながらそれに対する感想を述べてみる。いや~シンエヴァの話だと有料放送とか有料noteとかバンバン買っちゃうね。困ったね。

東浩紀の場合

大井昌和・さやわかを引っさげてシンエヴァ語りの先陣を切ったのが東浩紀である。公開初日・7時40分の上映を見て11時半から実に8時間ほぼブッ続けでエヴァについて語るという実にインターネットらしいアプローチを見せてくれた。

東浩紀

放送中、「シンジはオリジナル綾波とオリジナルアスカを救っていた」と気付き、ロンギヌスの槍のぬいぐるみに顔をうずめ声を押し殺して泣く東(3時間54分から55分ごろ参照)。これはもうサブカル史に残すべき名シーンですよ。見事にもらい泣きした。結局、僕はシンエヴァ本編を見て1ミリリットルも涙を流さなかったが、この東を見て爆発的に泣いてしまう。これを見て泣かないのはおかしいよ。

東は今作における(クリエイターの)男性的視点の強さについて、あえてポリティカル・コレクトネス的な前提を掲げた上で「僕は今回の映画を見て、男性であることを誇りに思いました」と語っていたが(動画2時間55分から59分ごろ参照)、その言い回しを借りるならば、この放送を見て僕は「あさましい亜インテリであることを誇りに思いました」と言いたくなった。

この放送はまあいろいろなことを言っているけど、ロンギヌスの槍を抱えて号泣する東の姿だけ見ればそれでいいです。それに僕とあなたと東浩紀が90年代から歩んできた全てが詰まっているので。いやー2021年に「あずまん……」って呟きながら泣く日が来るとは思わなかった。そうなんだよなあ。僕が好きだったゼロ年代の東って、東大院卒で博士号持ちで「デリダはさ~」とか言いながらエロゲーで泣いちゃうプリティあずまんだったんだよ。『ザ☆ネットスター!』とか出てヘラヘラしていた頃の……。

あと、この記事の内容みたいなのが好きな人はこの回も見たほうが良いかもしれないです。まあそういうことです。

宇野常寛の場合

宇野常寛は、公開当日に今作を見た感想を翌日に記事で語っている。内容は新劇場版シリーズ全体が抱える問題点を指摘したものだ。

僕はこの感想を一読した時は「確かに、この記事内の指摘は正しい。だが、今作を語るにあたって第一に語るべき内容はこれなのだろうか?」と疑問を感じた。

とは言え、2度目に今作を鑑賞した時は、たしかに宇野がこの目線で語りたがる気持ちがよく分かった。端的に言えば、「今作の提示するビジョンを必要としない人」も世の中にはたくさんいて、その人にとってすれば周回遅れの作品なのだということである。

しかし、だからこそ僕が思うのは「その目線をバッサリ捨て、95年から進歩できなかった観客たちへ真摯に向き合ったからこそ今作は名作たりえたのではないか」ということである。

もっとも、宇野はnoteの記事においても『シン・ゴジラ』を例に挙げつつ、庵野とは作品によっては描くべき最先端の問題を捉えられる作家でもあると語っている。

また、こちらの放送(埋め込み非対応のためリンク先を参照)でも宇野はnoteで書いた内容を広げて語っているが、「もちろん、ひとつのフィクションで全てをことを描けとは思わないけれど」と現実的な限界を踏まえた上でのフォローも入れている(53分30秒から54分ごろ参照)。

だからこそ僕は宇野が的外れな(あるいは無粋な)指摘をしているとは思わない。むしろエコーチェンバー現象を破壊するしうるこの目線で語れる論者がいてくれて本当に良かったと思う。その上で、それを乗り越える補助線として「バカ映画である」と結論づけたいわけだけど。

あと、新劇場版は制作にあたって明確に新訳Zガンダムを意識しているはずで(それはこの記事でも庵野本人が語っている)その点についての比較も宇野の口から聞きたかった。宇野は3月22日にもシンエヴァについての放送を予定しているので、そこで語ってくれることに期待している。

岡田斗司夫の場合

岡田斗司夫はこちらの放送(埋め込み非対応のためリンク先を参照)でシンエヴァの解説をしている。岡田は公開初日に初回視聴し、そこから放送までにさらに2回映画館へ足を運んだそうだ。ただし、残念ながらこの放送で主題として取り上げられている「シンエヴァのオマージュとは儀式である」という説明はよくわからなかった。

岡田斗司夫ゼミってもう少し具体的かつ客観的な例を提示しながら解説してくれるものだと思うのだが、シンエヴァ回では最後までピンとくる証拠が提示されなかった。重要な根拠としてa-haの『Take On Me』PVを紹介していたが、「いやそれは無理があるだろ……」という内容だったので不満を抱いている。でもまあ、岡田の解説は講談だから聞いてて面白ければそれでいいけど。

とは言え、『VOYAGER ~日付のない墓標~』の歌詞を解説しながら泣くのを我慢する岡田は良かった。これもサブカル名シーン入りである。僕はオジサンがアニメの話をして泣きそうになっているのに弱い。

放送内でも触れていたが、この曲を作中で引用することは複数の意味を持つ。僕は、庵野によるサブカルチャーへの感謝の意見であり、GAINAXへの許しの意味であり、国産SF映画を終わらせた当事者としての贖罪の意味であるとも思っている。なぜ庵野が贖罪するのかと言うと、それはアニメの台頭が国産SF映画を終わらせた一因であると思っているからだ。

個人的に、国産SF映画が終焉するまでには3段階の特筆すべき事象があったと思っている。それは以下の3つだ。

①1978年前後のスター・ウォーズ公開&機動戦士ガンダム放送開始(古典SFの敗北)

②1984年のさよならジュピター失敗&風の谷のナウシカ公開(小松左京の限界と宮崎駿の台頭)

③1996年に『ガメラ2 レギオン襲来』&1997年に『新世紀エヴァンゲリオン』が日本SF大賞を受賞(純怪獣映画世代の特撮征服と戦後サブカルチャーの総括)

このうち庵野は2件に関わっている。だからこそ庵野は自らを育てたSFを肯定し、その意志を引き継ぐ姿勢を見せるためにこの曲を引用したのだろう。こういった目線をこの映画に持たせてくれたのも岡田の解説あってのことなので、そこは本当に感謝したい。

結局

3人共、公開初日に映画館へ足を運んだところが偉い。3人を初日に映画館へ連れていったシンエヴァも偉い。

インターネットメディア外の声

と、さんざん各論者の語りを引用した上でこんなことを言うのもひどい話だが、本当に僕が読みたいのは大塚英志のエヴァ評である。TV版エヴァの最終回を「自己啓発セミナー」と切り捨てた男だ。その目線を踏まえた場合、今作はTV版など比べ物にならないほど自己啓発セミナーである。

コロナ禍だから、という言い訳を使うまでもなく、どうしても今日に他人の声を調べる際はインターネットというメディアに頼りがちになる。だからこそここまで紹介したのは皆インターネットで自分のメディアを持っている論者の声だ。パソコンの前にいるとあたかも様々な人々を広くリサーチしているように見えるが、実際はインターネットの中で商売を成り立たせるためのバイアスがかかった声しか見ていないであることを忘れてはいけない。

だからこそ、インターネットメディアと距離を取っている大塚のエヴァ評を読みたいと思う。この時代にあえて95年的な環境を維持している人間の声こそ、シンエヴァがテーマにした時代との本質的な親和性があると思わないだろうか。

以下、ここまでの内容とはあまり関係ない所感

・トップやらナディアやらカレカノやらとセルフオマージュがたっぷりの今作だが、ベースがEOEであることは間違いないだろう。例えば冒頭でシンジくんがアスカの前でゲロを吐きまくってるのはEOE冒頭の射精(=TV版冒頭および序で綾波を受け止めた時に手に血がつく)と直接的な対比である。物語が始まる度に手に体液がベットリつく男・シンジは今回もお約束を守ってくれた。

・第3村パートにおいてアスカは終始ほぼ裸族だったわけだが、アレはシンジにとってはオナニーチャンス到来という意味である。「ホラ!シンジくん!得意のオナニーを炸裂させるチャンスだぞ!」と何度もアピールさせといて、EOEとは違う道として「オナニーしないシンジ」を描くというこの見せ方、上手だよね。

・しかし映画のラストにムチムチ爆乳アスカ登場というスーパーオナニーチャンスを残しているところがいやらしいよね。制作陣のオナニーに対する並々ならぬ熱意が伝わってくる。シンジくんといえばオナニー、オナニーといえばシンジくんである。オナニーしないことで立派な大人になる。

・初回鑑賞時は「中山勝一がアバン1,2とA,Bパート、鶴巻和哉がオープニングとCパート以降、前田真宏がゲンドウの心象風景およびデザイン周り統括の担当かなあ」と思っていたが、パンフレットのインタビューを見ると鶴巻担当はオープニング(クレジットに記載)とA,Cパートらしい。分からないものである。

・2回目はそこのところをよく注目しながら見ようと思っていたが、結局の所よくわからなかった。思考停止的で良くないとは思いながらも、諦めている部分がある。だってこの映画はどこを切ってもあまりにも庵野秀明のフィルムだ。新劇場版において圧倒的に庵野色が強い。見事に各監督を掌握しているとも言えるし、各監督が庵野的ビジョンの実現に向けて本当に尽力したとも言える。偉大なる総監督に敬礼である。はやくコンテ集売ってくれ。

・副監督の谷田部透湖は第3村担当だった。自主制作の作風をそのまま活かす形での大抜擢だったんだなあ。こういうシンデレラストーリーは良いよね。自主制作の参加からマクロスと巨神兵で大作家への道を拓いた人もいることだし。

・しかし、今回はヴンダーが良かった。正直『Q』でシネスコを採用した時は「うーむコレのためにシネスコか……」と思っていたが、今回は見事に面目躍如である。「さすが鳥の空中戦艦!」と叫びたくなる見事な飛行(とび)っぷりであった。

・特報にも使われたこのカットを見てよ。ここ良かったねえ……。Qのスタッフロール後に流れる予告だと三石琴乃が「空を裂くヴンダー!」と叫んでいてオイオイ冗談よしてくださいよと思ったがこれだけカッコよく突撃してくれれば言葉に嘘はなかったと言っていいでしょう。

・あとヴンダーのATフィールド大気圏突入良かったね。SFアニメと言ったら大気圏(再)突入ですよ。艦橋からの主観的カメラでグンと地表まで降下するあのスピード感は先行作品では見たことがない。グーだ。

・ATフィールドで大気圏突入できるならQの冒頭に出てきたエヴァはなんで耐熱シールドを背負ってたんだ?5分以上活動しなきゃいけないから、外部バッテリー積んでたのでそれはATフィールドで保護できない、みたいな話なんだろうか。まあいいや。

・ただ、やっぱり今作中盤の新2号機&8号機活躍シーンはショボいよ。いや群体エヴァは良く描けてると思うけど、殺陣はなんとかならんかったのか。まあエヴァVS敵集団を描く時の殺陣って明らかに仮面ライダー(およびその源流にあたる大野剣友会メソッド)の引用なので、クラシカルな形以上は表現できないのだが。

・EOEのアスカVS量産型も仮面ライダーが戦闘員と戦う時的な殺陣で、よく見ると「明らかに量産型は順番に襲いかかってる……一斉に攻めた方が効率いいのに……」と思わざるを得ない。EOEの場合は量産型との戦闘シーンの合間に等身大キャラクター達の芝居が挟まっているのであまり気にならないのだが、今作は基本的に戦闘シーンが延々続く(合間にコクピット内の様子がインサートされる程度)ので、ここは本当にキツかった。

・どうしても黄瀬和哉&本田雄入魂の出来でファンを唸らせたEOEの戦闘シーンと比較されるべき場面だとは思うので、今作でさらなるアップデートされた戦闘シーンを見せてもらいたかったところである。

・あと、新2号機のビジュアルが公開された時「このミサイルの量……さては全方位ミサイルをやる気だな!よろしくたのむよ庵野ク~ン」と思っていたが、やらなかったね。まあトップでもやってたし。

※2021年3月28日追記

すいませんやってました。渦状の爆発という斬新な表現に理解できておりませんでした。どうもすみません。

・でもあの群体エヴァを描けてホントCG頑張ったよ。CGで思い出したけど、第3村でアスカがシンジにレーションを無理やり食わせるところCGらしいね。初回鑑賞時は「ここで枚数使うの!?」とビビったけど。

・カラー設立にあたっては制作環境の待遇改善も目標に掲げていたはずで、その解決策としてCGの積極的な導入および利用方法の開発に力を入れいていたから、この映画で完璧にそれが実を結んだ感じがしてホント良かったよ。

・庵野は自らをコピー世代だと自虐しているわけだが、そこからの脱却手段として新たな手法を模索し続けた作家でもある。EOEでセルを裏返しにして脱構築を図ったのとかもそうだし、デジタル環境の導入によるフットワークの向上と偶発性の演出もそうだと思う。DVCAM持って街でゲリラ撮影しまくった『ラブ&ポップ』とかまさにそうだよね。

・パンフレットの鶴巻インタビューを読むと、庵野は今作でも相当デジタル環境にそれを期待していたみたいで、良いように機能してたと思う。いやあ、マッキー頑張ったなあ。ホント偉いよ。

・摩砂雪はたぶん『シン・ウルトラマン』に送り込まれている。『GAMERA1999』と同じ構図だろう。頼れる男やでホンマ。

・回想シーンは作画および色指定を各作品の特徴に合わせて再現しているっていうの、グッドアイディアだよねえ。分かりやすいのがサードを止めるためVTOLに乗り込む加持のシーンね。あそこ明らかに破の作画と色指定だから。

・バルト9の初日初回上映時にサクライケンタがいた。エヴァンゲリオンから影響を受けていることを公言している作家なので(特にEOE的な思想を。自分がプロデュースしてるアイドルのライブでEOEの客席写すギミックをまんま再現してたりする)、喰らってるだろうなあと思っていたら、やっぱり喰らってた。それでメシ食ってる人にとってはキツイよなあ。がんばってね。

・北上ミドリと鈴原サクラがシンジを撃つ撃たないで揉めるの、イデオンのバンダ・ロッタオマージュだったんだろうか。

・ヤマト作戦の時、明らかに5分以上エヴァ動いてたけど活動限界どうなってるんだ?

まあ、エヴァについてはこのくらいでいいでしょう。

<ヘッダーおよび記事内引用画像は大井昌和×さやわか×東浩紀「全 世 界 最 速 シン・エヴァ・レビュー生放送! さようなら、ぼくたちのエヴァンゲリオン。」 より>

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