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バカ映画としてのシン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇と洗脳の終わり 2021/03/08 20:54

公開当日に『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』を見てきた。この記事はそれについて語るものである。さて文章を書き出したはいいが、しばらくは何の意味もない文字列を並べることにする。なぜかと言うと、それは不用意なネタバレを防止するためである。文頭からしばらくは無意味な文字を並べることで、意図せずしてこの記事を目にしてしまった人に作品の核心部分に触れる文章を読ませないための工夫だ。本当はこういった”オタク的馴れ合いしぐさ”をしたくはない。それは非常に不格好で無粋で芸のない手段だ。だが、今回に限ってはその手段を取ることに抵抗がない。シン・エヴァはそんな外面的な強がりを捨て、本質に向き合うべきだと教えてくれる作品だったからだ。

素晴らしい作品だった。何の皮肉でもなく、心からの言葉である。この作品にどんな特徴があり、どの点で優れどの点で劣っていたのかをつぶさに書く必要がある。が、それを書くにはあまりにも語るべき内容が多すぎる。そのため、つらつらと冗長に書く。色気のないやり方だが、それでも、書く。

三流映画の説明ゼリフ

とにかく説明ゼリフの多い映画だった。体感で、実にセリフの6割が説明ゼリフの映画である。基本的に会話・モノローグ・独り言は全て状況の説明であると想定して聞くべきだ。映画的に0点の脚本である。

庵野秀明は、基本的に説明ゼリフを多用する作家だ。したがって過去の監督作品において脚本品質を酷評されることが多く、僕もこの点においては同意である。

その一方で、説明ゼリフの多さに対し、革命的な解決方法を持っている作家でもある。それは、「膨大な量の説明ゼリフを聞かせると同時に、ビジュアル的に背景・芝居でさらに多くの情報を提示する」という手段だ。

庵野はこの手段をテンポの良いカット割りに潜り込ませることで作劇の弱さを補い、作品を崩壊の危機から防いできた。自覚的だからこそ、脱法的な解決方法を模索できたというわけだ。実に裏技的であり、素直に評価し辛い。

が、シン・エヴァおいてはその手段が完全に破綻している。新しい舞台が登場すればドラクエの村人のごとく「ここは○○の村で~」と語らせ、敵がATフィールドを張れば「このATフィールドを破るには○○しなければいけない……!」と独り言を叫ばせる。全てがそうだ。

その頻出度は明らかに異常で、もはや過去作に存在した「説明ゼリフの多さに対する解決方法」では捌けていないことは自覚しているはずである。なぜ、そこまでしなければいけなかったのか。それは庵野が、この作品における自らの覚悟を示すためである。

バカが作った映画

この作品は、明らかに、おかしい。ボケまくっているのだ。「陳腐な表現方法ばかり出てくる」と言ってもいい。

映画前半の村落でシンジたちが生活するパートからしてそうだ。この村の描かれ方は明らかにおかしい。例えば、プラグスーツ姿の綾波やアスカがウロウロしていても何の違和感も抱かずに村民が生活している。

いや、もちろん、この問題は作劇上で処理されている。それはプラグスーツ姿のまま綾波が農業を手伝うシーンで、村民たちに「あら~、やけにピチピチタイトなお嬢さんだねえ」と驚かれる部分である。観客がツッコむ前に登場人物にツッコませて解決する、いわゆる自己ツッコミである。説明ゼリフの一種でもあることを忘れてはいけない。

もとよりアスカは村に住むケンスケの家に寝泊まりしているので、プラグスーツ姿でも村民からは違和感が無いのだろう。また、ヴィレ配下の村なのでプラグスーツ姿の作業員なども度々見ていたのかもしれない。が、だとしたら村民が綾波のプラグスーツ姿に驚くことと統合性が取れない。

その後も村パートの描写は全て劣化長井龍雪のような形で続く。綾波はイノセントな村人たちと触れ合っては馬鹿の一つ覚えのように感心し(毎回「これが汗水たらして働くってことなのね」「これがかわいいってことなのね」と例のあの声で独り言を言いまくる)、人間性を取り戻してポカ波状態になる。

『破』はTVシリーズの物語をなぞりながら、かつては選ばなかった道を通ることで綾波がポカ波へ変わっていくことに感動するのであって、「優しい村人と暮らして優しい綾波になりました」ではカタルシスもクソもない。

一方のアスカは相変わらずキレまくっては村の仕事もせずワンダースワンでグンペイを遊びまくり、シンジに裸を見せつけてはさらにキレる。一応これらのシーンは「ヴィレの搾取を受け入れるしかない村の共産主義的絶望性」「ケンスケと男女の関係であることの発露」「シンジが性欲に負けて活気を取り戻すことに一縷の望みをかけている」等の表現が隠れてはいるのだが、それにしても雑である。

最初は「あ~。慎ましいながらも希望のある村を見せて、後にそれが欺瞞の塊であることを明かす流れね。古臭い手を使うなあ」と思って見ていた。が、村パートは最後まで何も劇の雰囲気を変えないまま終わった。シンジも、いつまでもイジけ続ける理由を「村のみんなが優しいのもイヤなんだ!」と説明していた。セリフで。

村パートについてはまだマシな方で、舞台がヴンダーによる南極襲撃に移ってからはより顕著かつよりブッ飛んだ方向に過激化していく。決戦を前に、「昔はシンジのことが好き"だった"かもしれない」と告げるアスカ。シンジに取ってみれば急な失恋である。

しかし、しょうもない。こんなものはファンをいたずらに喜ばせる陳腐なラブコメもどきだ。口ではこう言っているけれどもアスカは本心ではシンジのことを……とオタクに妄想的解釈をさせるための符号にすぎない。

富野由悠季だったら真顔で「本当に、好きでもなんでもなかった。勘違いしないでほしい」と言って、その所作でうっすらと本当の気持ちを観客に伝えるであろうシーンである。

南極の基地を目指して進軍する最中、何の伏線もなくヴンダーの同型艦が登場して道を阻む。一方で、副官のリツコが「敵方には他にもさらにヴンダーの同型艦がいるはず」と雑なセリフで伏線を張った直後に、件の新たな同型艦が登場して強襲してくる。その場の思いつきで映画を作っているのか?

恐ろしいことに、もっとたくさんこういった噴飯ものの描写があったはずなのだが、このへんからは万事そんな調子なのでほとんど具体的に思い出せない。脳みそが記憶できる容量を完全に超えるほど、どうしようもない陳腐な表現が続く。アスカとマリがエヴァで出撃するが、緊張感がない。こいつらが敵に勝とうが負けようがどうでもいいよという気分になる。

ピークに達した異常性、そして

ゲンドウが登場してからはさらにひどい。何の説明もなく空を飛んでヴンダーの甲板に着陸するゲンドウ。それを甲板の上に出てきて待ち受けるミサト。「そうだそうだ」と甲板の上まで応援に駆けつけるシンジ。ぞろぞろ甲板に登ってくるブリッジクルー。ひどい。ヴンダーがバランスを崩したら全員高所から落ちてお陀仏だ。

パワーアップしてワームホール的な空間をワープするゲンドウの13号機。ダンスを踊る井森美幸の手足のように平面的な上下左右の瞬間移動を繰り返している。何の意味があってその移動方法なんだ。

もう、いよいよ頭が痛くなってくる。エヴァファンの中学生が考えたような設定が次々と出てくる。30年前でも古臭いと思われる表現が止まらない。しかもそれぞれが加速し、どんどん頻出度が高まっていく。このへんで席を立つ人の姿をチラホラ見かける。エヴァを信頼していたのだろう。失望する気持ちが痛いほどよく分かった。

が、一方で、このあたりから「全部、わざとやっているんじゃないか?」とも思い始める。つまりここまでのシーンは『ふしぎの海のナディア』であるところの島編なのではないかと。意図的に手を抜くことで、工数を削減し作劇にメリハリをつけるための工夫なのではないかと。

予想はすぐに確信へ変わる。ついに市街地で直接対決を果たす初号機と13号機。予告編にも含まれていたシーンだ。このシーンだけ明らかにCGの質が低調である。CGまで手を抜き始めたのか?と思っていると、吹っ飛んだ初号機が「空」の「書割」に衝突する。

市街地に立つビルはミニチュア模型で、太陽光だと思っていたら照明機器の明かりだった。初号機と13号機はアニメ映画の中で戦っていると思ったら、特撮映画のセットで戦っていた。だから異質なCGだったのだ。戦闘シーンのまま、背景がミサトのマンションにワープし、学校の教室にワープし、映画前半に出てきた村にワープする。なんだこれは。何かの比喩にしても悪趣味だ。

そしてゲンドウは「力では私には勝てん」とシンジを諭す。勝ち目がないと分かったシンジは槍を置き、「父さんと話がしたい」と語り出すと、背景がネルフの司令室にワープする。僕はさすがに笑った。ここでやっと理解した。「この映画は、今までのエヴァと同じモノサシで見てはいけない」と。そしてこの映画のタチの悪さは島編の比ではない。最後までフザケたままで突っ走るつもりだ。

都合のいい作り事で、現実の復讐をしていたのね

ここからが圧巻である。衝撃的な内容の連続で、順番が合っているかどうかが怪しい。

ゲンドウの心境が水墨画調のイメージカットと共に語られる。まるで、作画監督・庵野秀明の出世作『王立宇宙軍』のエンディングだ。シンジがゲンドウの中にある心の弱み(EOEの結末を望んだシンジ、を恐れる心)を指摘すると、舞台は実写映画の撮影スタジオにワープする。

髪の伸びた綾波と言葉を交わすシンジ。壁には、「EOEの人類補完シーンでフラッシュバックされる、TVシリーズの映像をコラージュした映像」が映写されている。フラッシュバックのフラッシュバックだ。ヴンダーが生み出した槍を受け取ったシンジは13号機を倒し、チルドレンの本心を感じ取りながら補完を進める。

カヲルは、シンジのことを助けられると思い上がっているお調子者だった。綾波は優しいけれど、別にいなくてもいい存在だった。血も涙もない断罪が続く。

そして、EOEにおける最重要人物だったはずのアスカも、ケンスケの癒やしにより心の平穏を取り戻す。気遣いができて、仕事ができて、自意識に心を支配されない男であれば誰でも良かったのだ。

EOEの絶望的なまでに美しい愛の描写は、もうそこには無い。いや、それはすべて「演出されたもの」で、本質的にはシンジと観客による単なる勘違いだったのだ。僕が愛情だと誤解していたものは、カヲルが「思い上がった」末に抱いたものであり、綾波も獲得できたが「別に、なくても困らない」ものだった。

場面が変わって、EOEのラストシーンが再現される。年齢を重ねてムッチリと肉付きの良くなったアスカ。その姿形はこれまでと全く異なる(ご丁寧に「キャラクターデザイン」レベルで別人になっている)。つまり『彼氏彼女の事情』のACT25.0だ。プラグスーツの端々が破れていて、豊満な巨乳や艶めかしい太ももがチラチラ見える。エロい。このアスカを見てオナニーしたい。でもここでオナニーしたらEOE冒頭のシンジだ。

そんな葛藤を抱えるシンジと観客をよそに、アスカは「昔はあなたが好き"だった”」と再び告げる。終わった。1本の映画で2回も同じことを言われたのだから、これはもう解釈の仕方とかいうレベルではない。希望が見い出せない。シンジを依り代にした俺とアスカとの疑似恋愛が終わった。

そして、ああ、庵野と宮村優子の恋愛も終わった。いや、とっくに終わっていたし、そんなものは我々が勝手に抱いていた妄想だったのだ。ここで大事なのはファクトではない。終わったので、実際どうだったのかとかはもう関係ないです。

シンジも「僕も好き”だった”」と告げる。シンジがオカズにしたアスカのオッパイは、あの頃に比べ何倍も上等なものになったが、もうオナニーはしない。「できない」のだ。もはや今のシンジはアスカに執着しない。己のおめでたい勘違いを”理解”したからだ。

このあたりでようやく気づいた。この映画に頻出するバカ演出は、『トップをねらえ!』だ。僕は腕立て伏せするロボットを見てはゲラゲラ笑っていたし、「ATフィールドは誰もが持っている心の壁だということを……」と言われれはウームそうなのかと神妙な顔で聞いていた。それが作品ごとに「モード」を使い分ける庵野作品の妙だと思っていたが、なんてことはない。庵野自身にとってすればそれは同じ「話を盛り上げるための嘘」であり、笑うのも神妙な顔で聞くのも間違いなのだ。嘘なのだから、真に受けてはいけない。

バカ演出だと思っていたが、いや、昨日までの僕こそがバカだった。嘘を信じていたわけだから。庵野はそれを伝えることで、自らが視聴者にかけた洗脳を解きたかったのだ。

庵野自身が、自分のかけた洗脳のタチの悪さをよく知っていた。だからこそ洗脳を解かねばならないと真剣に悩んでいたのだ。「うまく作ればすぐに嘘を信じてしまうバカな息子たち」の教育を間違ったのは自分自身だったと。

そして、今思えば、庵野は過去作品の端々に「あれは嘘だよ」と理解するためのヒントを入れていてくれた。僕はそれを真剣に考えず、斜に構えて受け流していた。でも冷静に考えると、庵野はずっと同じことを言っている。何度も何度も辛抱強く言ってくれていたのに無視をした。

父に、ありがとう
母に、さようなら
そして、全ての子供達(チルドレン)に
おめでとう
<新世紀エヴァンゲリオン 最終話「世界の中心でアイを叫んだけもの」より>

ああ!この頃からずっと!シン・エヴァで説明してもらうまでどうしてちゃんと理解してこなかったんだ僕は。

だから、庵野は気づいたんだと思う。「こいつらに比喩的なものを見せてもまったく理解しない。一から十までぜんぶ見せてやらないと分からない」と。バカだから作家本人が言っている言葉も信用しないと。モヨコと結婚した姿を見せても何も感じるものがないんだと。絶望したと思う。それでもファンを見捨てなかった。

エヴァンゲリオンという媒体も、庵野にとってはとうの昔から使い道のないコンテンツだったのだ。成熟した大人である庵野にとって、自意識と都合のいい嘘の組み合わせでできた物語など、自分の写し鏡としてまるで機能しない。だからこんなに作るのに時間がかかったのだ。

それを「早く作れ」とバカにしていたし、「俺好みに作れよ」と要求していた。気に食わない内容だととことん罵倒した。ずっと僕のことを真剣に考えていてくれていたのに。

ごめんなさい。

本当にごめんなさい。

その他所感など

・庵野は自分の人生の残り時間がそう長くないことを悟り、批判を覚悟で絶対に効果のある手段を選んだ。立派だ。が、本質的にこれと年齢は関係がない。人はいつ死ぬか分からない。ニアサードを乗り越えて事故で死んだケンスケの父のように。だから僕も今すぐに動き出さなくてはいけない。

・もう、眠れない夜にEOEの補完シーンを見ることはないと思います。

・庵野はエヴァから脱する姿を見せた。誰にでもできると行動で示した。

・「他人と分かりあえない」は真理かもしれないが、その結論に至る前に死ぬ気で他人と分かりあおうと努力しなくてはいけない。借り物の経験ではなく。

・「分かったふり」をしていればその場は乗り切れることを知っている。だが、「分かる」にならなければ現実は変わらない。

・9年10ヶ月26日間続けた元カノへの片想いですが、本日をもちまして終了することといたします。今までありがとうございました。

<ヘッダーは株式会社カラー公式Twitterより>

※以下2021年3月16日追記

・タイトルを変更しました。

・初回鑑賞時の記憶をもとに執筆しているため実際の作品とは異なる内容の記載がありますが当日の感覚を記録するために修正せず公開しています。

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