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『式日』のまま、シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇の公開を迎える

いわゆる「エヴァンゲリオンの謎」にまったく興味がない。したがって『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』の公開を複雑なモチベーションで迎えることとなった。

いや、「エヴァの謎にまったく興味がない」は言いすぎである。何しろエヴァンゲリオンは、会話の中にポッと出る専門用語や初出単語や画面の隅に写る映像情報がストーリーの把握において非常に重要な位置を占める作品なので、これらを無視しては作品鑑賞が成り立たない。したがって作中に不意打ちで登場する情報をフラッシュ暗算のように解析する作業をしながら作品を見ている。これらの情報をつなぎ合わせていけば作品の全体像を把握できるし、必然的に「エヴァの謎」の答えも想像することになる。

が、実際に自分がヱヴァンゲリヲン新劇場版シリーズを見るにあたってどこまで深く「エヴァの謎」について考えていたかを思い出すと、正直怪しいものがある。特に第3作の「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」についてはストーリーの流れを追うのに精一杯で、作中に隠された情報を推理する作業や矛盾を指摘する作業についてはほとんどしていない。これについてはインターネット上の集合知に丸投げしていると言ってもよくて、「考察サイト」「考察動画」のいかがわしい情報を斜め見しては「へー。そうなんだ。ふーん」と思って覚えては次の日に忘れているような状況である。

完全に脳みそのアウトソーシングであり、恥ずべき行為である。しかしその一方で、「エヴァの謎」を解くことに躍起になってもそれほど甲斐がないことも経験則上知っている。伊達に25年間もエヴァンゲリオンに付き合っていないのだ。「エヴァの謎」とは所詮トッピングであり、飾りであり、刺身のツマである。それに魅力を感じる人が大勢いることも分かるが、しかしそれならばウェルメイドな推理小説でも漁るか懸賞付きのクロスワードパズル雑誌でも買えばいいじゃんとも思うわけで、果たしてエヴァンゲリオンという作品にそれを求める必要はないと考える。

結局の所、僕にとっては製作者(そして多くの場合、それは監督/総監督を務める庵野秀明)がアニメ映画というメディアを通じて何を伝えたいのかにしか興味がないのだ。だからこそ、シン・エヴァがどんな筋書きの物語であり、どんな形で結末を迎えるのかというストーリーを鑑賞前に知ったところでなんの問題もないと思っている。

とは言え、まんまと公開初日・朝7時の初回上映を予約してしまったことも認めなくてはいけない。ネタバレが怖くなったわけではない。しかしこの映画を(できるだけ)早く見届けなければ、何か申し分が立たないような気分になったのも事実である。これは崇拝に似ている。例えるならば、神棚や墓というものは単に木材や石材などを加工して組み合わせた物体に過ぎないのに、丁寧に扱わねば罰当たりな気がするのと同じである。

「罰当たり」という前置きをした上での行動は、肯定的な意味を帯びる。しかし、「責任を負いたくない」という狡猾な意識も含まれていることを見過ごしてはいけない。

さて、庵野は2000年に『式日』という実写作品を監督している。いつ出会っても「明日は、私の誕生日なの」とうわ言のように繰り返す「彼女」に、映像監督である「カントク」が寄り添うという内容の映画だ。「彼女」は毎日自殺を企図(=生まれ変わろうとしている)しては思いとどまることを繰り返しているため、いつ出会っても翌日が誕生日だと語るわけである。

「カントク」は支離滅裂で粗暴な「彼女」に寄り添うわけだが、その甲斐甲斐しさや苦労っぷりにはフィクションの出来事とはいえ同情したくなる。時になだめ、時に突き放しながら「彼女」の語る過去を聞いて「カントク」が考えた答えは「自分(彼女)の本心に向き合わせる」だった。「カントク」は「彼女」が「彼女の母親」と再開する場に立ち会い、心の内を語るように導くというのが筋書きである。

言うまでもなく「カントク」は庵野自身を映画内に投影した姿だ。では「彼女」とは何のメタファーなのかというと、庵野の作品を鑑賞するファンを指すと考える。自分では行動に決着がつけられず、言っていることは的を得ず、「カントク」に答えを求め続けるのがファンだ。すなわち式日とは庵野がファンをカウンセリングする映画である。

式日のラストにおいて、「彼女」は「誕生日とは自分の生まれた日だ」と理解し、翌日の誕生日を受け入れる。文字にすると単なる事実の認知だが、これによって作中の「彼女」は生に向き合うことができたわけだ。結局の所、歪んだ認知が単なる事実を受け入れない障害になるという話である。誕生日とは自分の生まれた日であるという、もはや自分自身の行動や解釈ではどうも左右できない事実を受け入れるための映画であった。

鑑賞において、作品内容からテーマを読み取る作業は必要不可欠である。一方で僕は、自分にとって都合のいいテーマを作品に込めてくれる作家を無意識に選んでいることも知っている。庵野はどんな作品においてもどこか僕にとって救いを与えてくれる作家であった。手を替え品を替え寄り添いながら答えを出してくれる庵野は、作品を飛び越えた状況においても「カントク」そのものである。

と、別作品の例を挟んで再びシン・エヴァの話である。何度も公開延期を繰り返した本作の公開日が確定したのは封切り10日前であった。コロナ禍による苦しい状況の中で急遽の決定が求められたことは想像に難くない。が、僕にとっては渡りに船であった。もはやこの作品をどのタイミングで初見するかは自分で決められるものではない。公開日、それも初回上映で見ると決めることは、口を開けて餌を運んでもらうひな鳥のそれと同様なほど無気力で受動的な選択だ。

結局、20年経って式日で描かれたファンの姿から自分は脱却できなかったわけである。だからこそ、シン・エヴァはそんな自分の打破を促すような作品であってほしいとも思う。これを要望することすらもファンのエゴであり成長できなかった証拠であることは重々承知しながらも、早朝の公開に遅れることがないよう、前日放送のR-1グランプリを生で見ず19時に就寝する程度には律するつもりだ。

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<当該画像およびヘッダーは「シン・ゴジラ」へと至る、庵野監督・実写作品の系譜 エヴァ完結に備え「ラブ&ポップ」「式日」「キューティーハニー」を見るより、「『式日』完成披露試写会用告知ポスター(非人物タイプ・赤) 」と、「シン・エヴァンゲリオン劇場版」ポスター。モチーフの奇妙な一致については引用元でも言及されているため参照されたし>

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