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『No.10』感想文〜白人の作ったおとぎ話は地球外生命体をも救いうるのか?という問い

『ボーグマン』(2013)などのぶっ飛び映画で知られるオランダの奇才、アレックス・ファン・ヴァーメルダム監督の長編第10作『No.10』(2021)を新宿のシネマカリテで見た。公開当初、各所から聞こえてきたのは「意味不明」だの「難解」だのいうネガティブなワードばかり。こともあろうに映画評論家ですら匙を投げてまともなレビューを書かない始末なので、ガチガチに身構えて見に行ったのだけれど、意外や意外、これはむちゃくちゃわかりやすくかつ非常に面白い映画だったのではないだろうか。以下、俺なりにいろいろと読み解いていきたい。

幼少時に記憶をなくし、森に捨てられたすえに里親のもとで育てられたギュンター。彼は成長して舞台俳優になり、演出家カールの妻である女優のイサベルと不倫をしていた。ところがある日、老いぼれ俳優のマリウスに不倫の現場を目撃され、そのことがカールの耳にも伝わってしまう。激怒したカールはギュンターを端役に降格、代わりにマリウスを主役に据える。「なんでセリフもろくに覚えられないジジイが…」いっこうに納得のいかないギュンターは舞台の初演日に復讐を決意し、マリウスの足にトンカチで釘を打ちつけて芝居をぶち壊してしまうのであった。しかし本作が本当に圧巻なのは映画の後半部。前半のくっだらない通俗ドラマから一転、サスペンスやSFなど様々なジャンルを縦横無尽に飛び回り、終いには宇宙にまで飛び出してしまうのだ。

本作はズバリ「宗教」を題材にしている。そこで鍵になってくるのが終盤、カトリック神父のヴァシンスキーが発する「私たちはルナボー(異星)にイエスの教えを広めにいくのだ」みたいなセリフだ。それに対して主人公のギュンターは、宗教の概念すら知らない異星の住人までをも洗脳しようとするキリスト教の傲慢さを糾弾するのだが、監督のヴァーメルダムは明らかにギュンターの側に立っている。ようするに、「宗教がなくても成り立っているコミュニティにこれ以上いらん火種を持ち込むな」と言っているわけだ。ちなみにこの神父のセリフ、あまりにも唐突に出てくるので面食らった人も多いかと思うのだけれど、宗教における「神」というキーワードから映画全体を読み直してみると、本作は実は支離滅裂でもなんでもなく、一貫して同じことを語っていたことがわかる仕組みになっている。

本作『No.10』には神を代理表象した存在が2人出てくる。1人目が演出家のカールだ。彼は、役者=人間にセリフ=言葉を与えたり、なんらかの役割を割り振ったりすることで、演劇という名の世界を支配している。カールの逆鱗にふれたギュンターが徐々に端役へと追いやられたり、セリフの量を減らされたり、というのは神の裁きだったわけだ。この辺はどちらかといえばキリスト教よりはギリシャ神話の方が近いのではないだろうか(劇中にはオリンピックらしきテレビ中継のもようが何度か映る)。不倫を暴露され舞台でゴミみたいな扱いを受けたギュンターの復讐の矛先がカールではなくマリウスに向かうのも、神であるカールを罰することは絶対にできないからだ。

そして2人目の神がヴァシンスキー神父。これに関してはわりとわかりやすい方だと思う。というのも、物語のはじめから彼だけが特権的なポジションにいて、登場人物たちを一方的に監視しているわけだから。さらに、神父はそれこそギリシャ神話の神々のごとく世界に介入し、ギュンターたちの運命を翻弄して事態をコントロールしようとする。その最たるものが、神父とその一味が病床のマリウスの妻を殺害するくだりだろう。ギュンターを退っ引きならない状況に追い込むために、マリウスの目下の悩みだった妻を殺し、マリウスが演技に集中できる環境を作ってやることで、最終的にギュンターはマリウスに失脚させられてしまう。ここでは、宗教における神、および神の名を利用して目的を成し遂げようとする為政者たちの傲慢さが風刺されている。このことを逆にいうなら、これまでに展開されていたあのクソしょうもない復讐ドラマは、宗教や神といったものに踊らされたちっぽけな人間たちが繰り広げる醜い争いのメタファーだったのだ、と取ることができるかもしれない。

さて、物語の後半ではギュンターがなんと地球とは別の惑星ルナボーからきた宇宙人であったことが明らかになり、彼はひとり娘や神父の一味を伴って故郷の星に帰ることになる。そしてこのシークェンスでもやはり宗教=作り話の信用ならなさが風刺されていく。この場面では誰しもが「そもそもギュンターは本当に宇宙人なのだろうか?」と疑ってしまうはずだ。彼が宇宙人である根拠として、神父たちは、ルナボーに住む実母からのビデオメッセージや「肺が一つしかない」というルナボー人の身体的特徴をあげることによって、ギュンターを懐柔しようとする。ところが、前者はルナボーを模して作ったセットが宇宙船内にあったことから明らかに捏造したものだと思われるし(アポロの月面着陸捏造説を連想させる)、後者についても神父の一味はギュンターの娘が放った「私には肺が一つしかない」という発言を間違いなく盗聴していたはずなので、それに合わせて彼のレントゲン写真をでっち上げた可能性が高い。

本作がユニークなのは、これだけ怪しい材料が揃っているにもかかわらず、「宇宙船が宇宙を飛んでいることは疑いようのない事実としてある」というところなのだが、以上のことは宗教の本質を表しているようにも思うのだ。すなわち、(キリスト教に限らず)宗教なんてのは所詮、もっともらしく見えるフィクションの羅列でもって対象を洗脳するテクニックのひとつが権威と化してしまったものにすぎないのであって、実際のところはアポロの月面着陸捏造説のような陰謀論やなんかとそう変わらないのではないか、と。「そんなヨタ話を間に受けて互いに憎み合ったり殺し合ったりする地球人どもは救いようのないバカなんじゃないの?」俺が本作『No.10』から読み取ったのはそういうメッセージだった。

ラストシーン。「白人の作ったおとぎ話は地球外生命体をも救いうるのか?」という問いに、ルナボーの民は明確なNOを叩きつける。先ほども書いたように、ルナボーは宗教なんかなくても十分にやっていけてるんだからこれ以上いらん火種を持ち込んで混乱させてくれるなよ、というわけだ。しかしながら、ヴァーメルダム本人がアンチクライストな思想や強烈な無神論の持ち主なのか、と言われるとそうでもないように思う。たとえば、わが国でもっとも有名な彼の映画『ボーグマン』は、ホームレスの集団がゲーテッドコミュニティの豪邸に暮らす金持ちの家族を乗っ取って追い出してしまうお話なのだが、そこに(このテの作品によくある)社会の格差や不正義に対する怒りのような感情は微塵も感じられない。思想やイデオロギーがないのである。俺はオランダ映画はそこまで見ている方じゃあないけれども、近2作の『エル ELLE』(2016)と『ベネデッタ』(2021)でキリスト教をおちょくってみせたポール・バーホーベンしかり、なんの動機も持たないまま人間をひたすら地中に埋め続けるシリアルキラーを描いた傑作『ザ・バニシング -消失-』(1988)のジョルジュ・シュルイツァーしかり、オランダの映画監督からは冷笑のスタンスをはるかに超越した「無の境地」のようなものを感じてしまうのだ。イデオロギーなき無神論。便所から下水道へと流されてゆくウンコのことを誰も気に留めないように、宇宙船のけつ穴から文字通り「排泄」され、エンドクレジットで無の空間をたゆたう神父やイエスやマリアの像は、アレックス・ファン・ヴァーメルダムにとって単なるウンコのようなものでしかないのではないか。そういえば、オランダには神をも恐れぬえげつないウンコ映画がもうひとつあった。トム・シックス監督の『ムカデ人間』(2009)だ!

⭐︎4.3点(5.0点満点)

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