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最近見た映画メモその1〜『アメリカン・フィクション』『パーフェクト・ドライバー』『ヴェルクマイスター・ハーモニー』など

ここ最近、映画の感想文がどんどんどんどん長大化してしまい(この前の『ボーはおそれている』にいたっては7000字を超えてしまった)、さすがにこれはまずいだろうってんで、練習がてら短めの感想文をいくつか並べた記事を書いてみることにしました。こちらでは原則的にネタバレをしておりませんので、安心してお読みください。


『アメリカン・フィクション』(2023) コード・ジェファーソン

うだつの上がらない意識高い系黒人作家がやけっぱちで黒人ステレオタイプてんこ盛りの小説を書いたらバカウケ、一躍時の人になってしまう…というあらすじからは信じられないぐらいスマートでお上品な脚本だった。アカデミー賞脚色賞も納得。なんだけど、この字面からおバカなコメディを連想してしまうこと自体がこの映画では批判されていたのであって、俺自身もステレオタイプから抜け切れておらないのかもしれない。
主人公のモンクが周りの顰蹙を買うようにとった行動がことごとく裏目に出てしまう終盤のくだりは抱腹絶倒なのだが、同時にここでは「大衆なんざみんなバカばっかりなんだから俺の思い通りにコントロールできるやろw」的な、人を無意識のうちに舐めきった彼のエリート主義が批判されている。こういうところを見てもやっぱりスマートなんだよなあ。ちなみに、日本にもモンクそっくりの作家がいることを皆さんはご存知だろうか。自分が本当に描きたいものを描き続けてちっとも売れず、ためしに編集のアドバイスどおり大衆の要求に媚びまくった作品を描いたらバカウケしてしまった『SPY×FAMILY』の遠藤達哉先生だ!


『インソムニア』(2002)クリストファー・ノーラン

クリストファー・ノーラン監督のフィルモグラフィーの中でもかなり異色の作品。なにせこれだけ唯一ノーランが脚本のセクションに関わっておらないからだ(スウェーデンの同名映画のリメイク)。そのため映画ファンからは「ノーランっぽくない」だの「普通のサスペンスじゃん」だの「クソ映画」だのとひどい言われようなのだが、最初の「ノーランっぽくない」という指摘に関してはこの場を借りてきっちりと否定しておきたい。というのも、アル・パチーノ演じる本作の主人公ウィル・ドーマーがこの上なくノーラン的な人物であるからだ。
ドーマーは過去にやらかした証拠の捏造疑惑でもって内務監査を受けており、ことの真相を知る相棒のハップに首根っこを掴まれている。彼はそのことが気になりすぎるあまり、犯人の追跡中にうっかりハップを射殺してしまう。テンパったドーマーはハップ殺害の犯人を他人になすり付け、またぞろ証拠の捏造をしはじめる…とここまで書けばわかると思うが、要するにコイツは「ダメ人間」なのだ(笑)。
こう見てくるとノーランの映画には完全無欠でマッチョな主人公、というのが意外と出てこないことに気づかされる。不殺主義という謎のマイルールに固執し続けて目の前の悪党を取り逃がしてしまうあのアホだったり、死んだ嫁の幻影を深追いしてミッションをしくじりまくるあのアホだったり、嫉妬合戦を繰り広げた結果お互いに破滅していくあのアホ手品師2人だったり…。なんだけど、俺がノーランのことをどうしても嫌いになれない理由はまさしくここにある。ダメ人間のダメさと向き合うことから逃げておらないからだ。最新作の『オッペンハイマー』(2023)に出てくる主人公もこんな感じなのかなあ、と思ったりやなんかもした。


『パーフェクト・ドライバー/成功確率100%の女』(2022)パク・デミン

依頼者を追っ手の追跡から逃す運び屋の女が、死んだ依頼者の息子と地獄の逃避行を繰り広げる。ジョン・カサヴェテスの『グロリア』(1980)とウォルター・ヒルの『ザ・ドライバー』(1978)をくっつけたような作品だ。主演は『パラサイト 半地下の家族』(2019)のお姉ちゃん役でおなじみのパク・ソダム。どうでもいいんだけど、20年代以降の韓国の娯楽映画っていまいちなものが多くないですか? アクションやバイオレンスやカーチェイスの描写はすでに世界トップクラスの水準にあると思うのだけれど、それに慣れ切った俺たち観客はもはや韓国映画のウェルメイドなアクションで興奮できなくなってしまっている。「ああ、またやっとるわ。すごいな」ぐらいの感想しか出てこないのだ。
なぜこんな箸にも棒にもかからない作品を取り上げたのかというと、ラストシーンが近年まれに見るレベルでダサかったから(笑)。もちろん「本記事ではネタバレはしておりません」と銘打った以上、ネタバレをするわけにはいかない。なんだけど、演者のファッション、乗っている車、そこに至るまでの展開、演出、構図の取り方、そのすべてがここまで激烈にダサいラストシーンというのもちょっとお目にかかれないと思うので、気になった方はぜひチェックしてみてほしい(アマプラやU-NEXTで見られます)。


『ヴェルクマイスター・ハーモニー』(2000)タル・ベーラ

渋谷のイメージ・フォーラムにて鑑賞。ハンガリーの大巨匠タル・ベーラの映画は何度見てもさっぱり理解できないんだけど、146分のランタイムでわずか「37」という極限まで切り詰められたショットのことごとくがいちいちカッコよくて美しい。鑑賞中、何度ため息を漏らしたことか。
世界に満ち溢れた光の部分が少しずつ闇に呑まれていく…みたいなビジョンをタル・ベーラ監督は執拗に描く。たとえば、7時間超えの超大作『サタンタンゴ』(1994)は光が差し込む自宅の窓を板切れで塞いでいく男のショットで終わるし、監督引退作の『ニーチェの馬』(2011)は闇から始まった天地創造の神話を逆回しにしたような映画だった(光で始まって闇で終わる)。本作『ヴェルクマイスター・ハーモニー』(2000)で象徴的なのが、冒頭のダンスのシークェンスだろう。酒場の客たちが太陽とその周りを回る月や地球を演じ、そこに主人公ヤーノシュが皆既日食のうんちくを挟み込む。それを引き継ぐ帰路のシーンでは、街灯の下をヤーノシュが画面の手前に向かって歩いているのだけれど、道から街灯がなくなるにつれて画面から光の占める部分が少しずつ消えていく。最後の方にいたってはヤーノシュのいるわずかな一点を除くすべてが真っ暗な闇に覆われてしまう、というとんでもないショットが現出している(この凄まじさは俺のつたない筆力ではとうてい伝えきれないので、実際に見てもらいたい)。
この「光」と「闇」の二項対立に重ね合わされるのが「秩序」と「混沌」だ。ちなみにタイトルの「ヴェルクマイスター・ハーモニー」というのは、17世紀に活躍したドイツの音楽家アンドレアス・ヴェルクマイスターによって記述された音律を指す。簡単に言っちゃえば「よく調整された音律」のことであり秩序を象徴するものでもあるのだが、この概念は劇中で音楽家のエステルによって否定されている。いわく「そんなものは全部嘘っぱちなんや」と。同時に彼は「譜面では表現できない」オルタナティブな音律を模索しているらしい。これは混沌のことなのか、あるいは秩序と混沌の弁証法的発展を経たのちに炙り出されてくるものなのか。この直後、秩序立っていた世界は暴動という名の混沌に呑み込まれる。
物語の終盤では、サーカスのプリンスに煽動された大勢の暴徒たちが夜の闇の中を無言でもってズンズンズンズン歩いてくる。そこに続くのが病院の襲撃をワンショットでとらえたこれまたものすごいシーンなのだけれど、彼らはやたらと光り輝くフルチンのおじいちゃんを目の当たりにしたところでスゴスゴと引き下がってしまう。するとこれ以降、今度は反動的な秩序が混沌を駆逐しはじめる。と、こんな具合に本作ではもっぱら、二項のせめぎ合いが生むダイナミズムを描いている。ところが、先ほど引き合いに出した暴徒の行軍シーンにおいては、紛れもなく混沌を象徴していたはずの暴徒たちがなぜだか恐ろしく統率の取れた行動をする。秩序的なわけだ。病院襲撃のくだりでも、各々に与えられた役割をあたかも働きアリのようにこなしていく。混沌の中の秩序。秩序の中の混沌。
で、結局エステルのいう「ヴェルクマイスター・ハーモニーに取って代わるもの」とは一体なんだったのか。それを体現するのが、ラストシーンでエステルが出会うひとりの人物とひとつのモノだろう。「真の調和」とは、秩序と混沌の交代劇の行き着いた果てに、秩序と混沌とがない混ぜになったところに、「穏やかな目をした犠牲者」のかたちをとって現れるのだ。

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