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未来チケット(創作大賞2023・エッセイ部門応募作品)

ほっとしたら、鬼が立っていた。


業界未経験で入った会社の女上司はまさにこの表現がピッタリだった。

出勤して席にカバンを置いたとたん、声をかけられるのがお決まりコース。息をつくヒマもなく彼女のペースに巻き込まれて朝が始まる。

今ならスタバのカフェモカを片手に・・・・なんて想像アウェイな状況。

小柄な体からは強力な圧迫感が発せられていて、全力をふりしぼってくり出した笑顔が自分でも苦笑いに変わるのがわかるくらい。


オフィスは高層ビルの35階にあった。
つまりオフィスにたどり着くためにエレベーターを35階あがる。

1階上がるごとに変わる気圧に鼓膜がピーンとおかしくなる高さだ。そしてこの時間が一番どんよりとなった。


これは今から20数年前の話になる。


その頃の私は20代も後半、周りの友達は結婚をする子もいれば、
仕事でやりがいを見つけバリバリとこなす子もいた。


女子なら誰もが経験ある迷い道のお年頃。
「結婚するのか、それとも仕事を続けるのか?」を突きつけられる年齢だった。


そんな時、まるで神様が手を差し伸べたかのようにずっと憧れていたエンタメ系の求人が目にとまった。


未経験での挑戦だった。
やっとやりたい仕事が見つかり飛びついた。


心が躍った、体温が2度はあがったし、心臓がバクバクいった。
受かってもいない求人を見てこんなに興奮したのは初めてだった。


ここで体験することはこの先の人生、かならず新しい扉を開いてくれる。


「どうしてもこの仕事をやりたい!今しかない」即決だった。


そして奇跡が起こった。幸運にも神様はチャンスを下さった!
この『未来チケット』は無駄にしないと心底思った。


オフィスは100名程度が座れるデスクが理路整然と並んでいて、
面接の時に「これが新しく挑戦する世界だ」と胸を躍らせていたのを思い出す。


「ぜんぶ真っ白からスタートするつもりで全身全霊を注ぎ込む」
こんな勢いがあった私を、ものの見事に打ち砕いたのが女上司だった。


視線を合わせるのも冷や汗もの。周りも腫れものに触るように接していたが本人は気にもとめていなかった。


「あーたね、昨日言っていた資料まとめは今日中に出して欲しいのよ。締め切りは明日だけど、先にチェックしたいから午前中に頼むわね」


「あーた、今からミーティングだからコーヒー7つ入れて持ってきて」


「あーた、この書類を○部署に持っていって印鑑もらってきて。今すぐに!」


これが現実だった。


心の中で毎日思っていた。彼女のコマ使い、雑用係。
「こんな気持ちで仕事がしたくて挑戦したんじゃない」


何かにつけて厳しいトゲのある言葉でいつも怒られていたし、
事実、それくらい仕事についていけてなかったのは否定できない。


未経験だからという言葉で自分に言い訳をしたくなかった。

ある日、女上司のさらに上のボスから書類提出を言いつけられた。

ついでなら持っていって・・こんな雰囲気で気軽に頼まれものを受けたのが間違い。それも持っていく先は、社内でも厳しくて有名な隣部署の部長。


「なんだ?これは!こういう意味の内容じゃなくてもっと詳細を提出して欲しいと言ったんだ」


カチカチとパソコンのキーボードの音が響いていたフロアが凍りついた。


「部長は私に怒っているよね・・・・」一瞬で体温が下がるのを感じた。


「で?この部分の詳細は聞いているのか?」


「いえ・・書類を届けることだけを依頼されたので・・」


声が震えて冷や汗すら出ない。


「え?自分が頼まれた仕事のことさえわからないのか?
そんないい加減な気持ちで仕事しないで欲しいんだよね。やる気あるの?」


ずっと女上司の暴言にもガマンしていた。張り詰めていた糸が
キレそうになった。


ダメだ!我慢できない。
それを言ったら今日、この場所で終わり。十分すぎるほどわかっていた。


「すみません。他に何も聞いていないことは準備不足でした」


「だよね?」


「ですが、このお仕事がしたくて入社しました。前職もこのために退職をしてきました。真剣に毎日やっています。いい加減な気持ちではありません。覚悟してきたんです」


やってしまった!


言葉が口元を離れた途端、天井と床がぐるぐる回るのを感じた。
周りの席にいた人たちは、口パッカンでこちらを見ている。


あれだけやりたくてやっともらった『未来チケット』を、この一言で自分から終了させてしまうなんてバカにもほどがある。


静まり返ったフロアの張り詰めた空気感。
沈黙の間、走馬灯のように面接から今までの道のりが頭の中をよぎった。


そして部長が口を開いた。
くる、確実にくるあの決定的な言葉だ。クビだ!絶対に!


「お、そうか。やる気があるんだな、わかった。この書類は返すからちゃんと詳細を報告するように言ってくれ。それと、これからわからないことは私に直接相談しにきなさい」


え?!クビじゃないの?


「そこまでいう人は初めて。やる気はわかった。だったら知識をもっと入れないとダメだ。知りたいことは聞きにきなさい。覚悟して、忙しくなるよ。」


不思議と部長の顔からは怒りが消えていた。妙に納得したように落ち着いてうっすら笑顔になっていた。


部長の言葉どおり、それから半端ない仕事が流れてきた。もともと未経験だから全てが新しいことばかり。


関連部署の上長会議に入って議事録をとったり、女上司がするべき決済をまとめたり。


書類の書き方、提出までのフロー、委託業者との調整ミーティング、ついていけるはずもなく残業の日々。


週末も仕事をしていた。正直、キツかった。
けど啖呵を切ったのは私。この山を越えないとどうにもならないと思った。


仕事が増えても、女上司は相変わらず雑用を押し付けてきた。
忙しくしている私に機嫌が良いわけもなく、八つ当たりに無視。
他の同僚を特別に可愛がった。


こんな環境キツすぎる。帰りの電車で寝たフリをしながら何度も泣いた。


でも辞めなかった。
どれだけ言われても笑われても辞めるつもりはなかった。


『未来チケット』はゼッタイに手放さない。自分が選んだやりたいことだから。この思いだけで必死に食いついた。


そんな時、出勤のエレベーターで社長秘書の方と一緒になった。


「最近、頑張ってるって聞いたよ」


「え!そんな・・・・」


「ここ、最初はキツいのよね。仕事も多いし人は皆自分ごとばかりでしょ。私も何度”助けて~”って心で叫んだかわからない」


トリリンガルな才女、いつも落ち着いた雰囲気だと思っていた秘書さんがそんな話をしてくれるなんて。


「乗り越えたらこっちのもの。信用も出来上がるから。もう少しだけ頑張れ!」


この言葉で閉じていた心の目が開いた。
そう、ずっと心の中で愚痴ばかり言っていた自分に気づいた。


そう、周りのせいじゃなく私が変わらないといけない。


朝一番でオフィスに出社し、その日やるべきことを調整した。
いつも元気に笑顔で挨拶をして、雰囲気づくりにも努めた。


隣部署の部長は時々、席に様子を見にきてくれた。


「何か問題あるか? 頼りにしているから」


パソコンの文章が涙で滲んだ。
認めてもらえた。一生忘れないだろう。
フロアで一番何もわからず愛想笑いばかりの一年。


「すみません。すぐやり直します」

何度、このセリフを言ったのか覚えていない。


複数の委託業者からは名指しで連絡をもらえるようになった。
施工の打ち合わせも一人で任されるようになれた。


「他の人よりご相談がしやすくて助かっています」


「年末、良ければうちの忘年会に来ませんか」


こんなに嬉しい言葉があるだろうかとさえ思えた。

メールや内線で直接、仕事がくる。担当関連の仕事ならどんな質問
でも答えを返せるようになっていた。


やっていける。


未経験のハードルは相当高かったけど、自信がついていた。
そして女上司は静かになった。コマ使いに使われることも無くなった。


ある日、隣部署の部長から声をかけられた。


「話がある。今日のランチ一緒に行こう」


ご一緒したランチはしっかり部長のおごり。


「今度うちで一人辞めるんだけど、うちに来る気ある?」


正直、びっくりした。社内で一番やりたかった仕事だった。


「ま、最初は一番簡単なところから。また階段登る気ある?」


まだ今の仕事でやり残したことがあった。
未経験な私に親切丁寧に接してくれた委託業者さんとのつながりも大切に感じていた。


「部長、とても嬉しくて感謝の気持ちで一杯です。ただやり残したことがまだあります」


「そうか。わかった。じゃ思い残すことなくやりなさい」


”チャンスの女神は準備している人のところにやってくる”そう聞いたことがある。


チャンスはまた来る。これは私の選択。


もう未経験が怖くなくなった。人より優れたところなんてない。
わからなければ聞けばいい。笑われても次にできるようになっていればいい。


仕事はその地位だけじゃなく、人と人との間にあるもの。
上部だけでなく心底つながらないと良い仕事はできない。
だから丁寧に誠実に、そして自分を大きく見せない。


「すみません。素人ですみませんが教えていただけますか」


教えてもらう姿勢があれば、学ぶ機会はもらえる。
会社名や地位じゃなく、この人と仕事がしたいと言ってもらえることが仕事の成功だとわかった。


たくさん失敗し、笑われ、謝った。


それでも人生の中で貴重な体験をさせてもらえた。これ以上望めるだろうか。そしてそれから10年間、この仕事を楽しんだ。


あの時信じた『未来チケット』はしっかり扉を開いてくれた。


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