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布巾、思い切り、書くことへの渇望

新年におろした新しい布巾がもう焦げてしまった。
クリスマスプレゼントに頂いた、ガーゼが織り込まれた真っ白な布巾だ。
日本からのお土産だという。
スープを吹きこぼしてしまった時に慌ててガス台を拭いたら、残っていた熱で焦げてしまったのだ。
汚れるのは何度でも洗えば良いのだから構わないけれど、焦げるのは損われるみたいで胸が痛くなった。

思いつめて思いつめた先に、ふっと思い切れることがある。
思い切った、と考えても実はまだあがいている段階であることもあって、そういうときには未練や恨みがましさが言動に透けて見えてしまう。ここではまだ胸の奥が焦げ付いたままなので、それはまだ思い切れたとは言えない。
自己憐憫や誰かへの責任の押し付けをしたり、そういう自分を反省したり嫌悪したり、誰かにそういう自分を洗いざらい話してしまったり、急に自分が善人みたいな高みに登った気持ちになったり、やっぱり胸の内にこもってぐつぐつああでもないこうでもないと七転八倒したり、文章を書いてみたり全部引き破ってみたり、そういう層を何層かくぐり抜けたのち、すっと胸の中が広くなって風が吹き渡るようになることがある。
自分のなかに起こったことをぜんぶ認めて、腹が座る。
自分の保身とか、自分の体面とか、文句不満とか辛かったこととか、利益不利益とかそういうことはばらばらと吹き払われていって、わたしの幹だけが残って謐かに、風を受け止められるようになる。
わたしはその風をいなすこともできるし、枝を震わせることもできるし、その気になれば歯向かうこともできる。
わたしができる限りのことは、できるのだ。
わたしができないことは、できないのだ。
ただそれだけ。

文章を書くということについて、ずっと考え続けている。
前みたいにすらすら書けないことを少し残念には感じているけれど、悪いことだとは思っていない。
私はしゃべるのが下手だけれど文章にすれば少しは人に伝えることができる、と昔は思っていた。
今はともすると書くほうが時間がかかってしまう。
書くことも、自分の本来にきちんと近付きたいともがいているのかもしれない、そうであるならわたしはそれをじっくり育てたい。

何故だかは知らないけれど、言葉をあらわすことにとても惹かれる。
読むこともとても好きなのだけれど、いま、自分が感じたり考えたりしている何ごとかを、どうやったってそのままは表に引っ張り出せないこのことを、「ことば」というかたちにしてみたい、その衝動が、いつもある。
それは踊りでは補填できないものであるらしい。
踊りや音楽をするひとのなかには、言葉を疑い、言葉を発すること自体から遠ざかろうとする人もいて、そういうことの重要性もわたしのからだや感覚はよく理解できるし、知っているみたいだ。
知ってはいるのだけれど、それに引き裂かれるみたいして(いや、ちゃんと同居しているような気もするけれど)なにかことばを紡ごう、組み立てようとしている。
ちょうど喉の奥のあたりで積み木を絶えず積み上げては崩しているみたい…鍛冶場みたいに叩いて鍛えたり、熱を加えて中心からひっくり返し練ったりしている。潜り込んで汲みに行っては手ぶらで帰ってきて、また全体を頬張り尽くしてみる。
私は歯を噛み締めて、それらをおいそれとは外に出さないようにしている。
きちんと抑えていなくては、激しさで、肉体が裏返ってしまいそうだ。
中途半端なところで出してしまったら、私の考えたり感じたりしているものとはちょっと違うものが冷え固まって出てきてしまう。
でも時には、その門を緩めてだらだらと書いたり、即興でものを言ったりするほうが、ことば以外のものがきちんと伴ったりすることもある。

ことば、というものにくっついてくる、色んな感覚を、私はどう瞬時に扱っていいか戸惑う。
色や温度や味覚や丸みや角、スピード、それとともに意味があって、翻訳だって正確にしなきゃいけなくて、時系列まである。
踊りの即興くらい、むずかしいではないか。
途方に暮れながらも、ことばというものを求めてしまう。
私は、悩み続けてきたことを特に好きになってしまうのかもしれない。
踊りとか、言葉とか、アパートメントのこととか。

そういうことを考えていたら、Twitterで若松英輔さんがこんなことを書いていらした。
こんなところに載せさせて頂いて良いものか分からなかったが、何度も読みたいので引用をさせていただいた。
以下、若松英輔さん(https://twitter.com/yomutokaku)より

「書く」ことは文字を書かなければ始まらない、というのは表層的だ。むしろ、書きたいと思いながらも「書けない」と感じなければ、本当に「書く」べきことには出会えない。すでに頭のなかで整理されたものを、言葉に移し替えるだけなら、文学や哲学、すばわち美と叡知がどうしてそこに生まれるだろう。(https://twitter.com/yomutokaku/status/1084314642157981697)
ひとは、文字を書くことを踏み台にして、おのれの心にある、書き得ない何かを、自分と他者に伝えようとするのではないのか。また、文字を読むことによって、その奥に秘められた意味をもう一つの眼で、「読む」ことに挑んでいる。そうでなければ、身を削って「読み」、「書く」必要もないではないか。(https://twitter.com/yomutokaku/status/1084316496333922304)


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