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ケ・ブランリー美術館、過渡期

ロシュフォールから友達が来たので一緒にケ・ブランリー美術館に。
ここには何度か訪れているのだけど、以前来たときと感じ方が変わっていて、それについてうまく説明ができなくて帰り道むすりと黙り込んでしまった。
誰かに、というよりは自分に対してもやもやとして、でもそれを手っ取り早く説明してしまいたいとはやって言葉にするけれど、口にのぼる端から違うなと分かっている。
黙っておけばいいのに疑問を身内に留めておけなくて口走っては自分が嫌になる、というような。

特別展は竹籠(茶箱や花を活けるため)の展示。
デザインに遊び心が入っていたり、技の粋を尽くされながらも、なにか触れるものに対してどっしりと構え、開かれた雰囲気がある。
一方で現代作家のものは、技術的には洗練されてもいるし考え抜かれたものなのだろうけれどなにか「含み」のようなものを感じられない。
主張は見えてくるのだけれど、私がそこに手を伸ばしたくなるような余韻がないというか、どちらかというと名札のようにそこに貼られている感じで、奥底から黙って見つめ返してくるようなものを感じない。
隅まで語りつくそうとするゆえなのか、出来上がったその先に呼吸が抜けないような…
古い時代の作品と何度か見比べてみたのだが、この間にある包容力とか色気の違いはいったい何なのだろう、と考え込んでしまう。
まだ自分が何を物足りなく感じているのか言葉にすることができない。説明することはできないけれど、それは確かにそこにあって、ひと目で違うと分かる。
厚み、手触り、立ち昇るもの、そのものをとりまく雰囲気…自分のなかのどこに触れてくるか、その場所と重力がまったく違う。
これは私が単に古いものが好きな懐古趣味な人間であるから、ということではもちろんない。自分の好みはとても偏っていることは認めるけれど、好きでないものでも良いものは良いものとして見分けがつく。
とはいえ、私が「良し」とするもの、私が芸術に対して「あってほしい」とするものが、今の現代社会で評価されるものだったり、目の前の作家と価値が共有されるものかは分からない。
むしろ世の中が「良い」としているものの大半を私は「良い」とは到底思えないので、私の感覚は一般にはまったく参考にならないものかもしれない。

コレクション。
世界のあらゆる場所(オセアニア、アジア、アフリカ…)の品物、お面や武器、生活用品や装飾品、祭事にまつわるもの等が集められている。
ここにあるものは誰だれさんが作った作品、と銘打って置かれているものではない。その時代、その土地に生きていたひとが日常のなかで作った物だ。
芸術作品と道具、芸術家と職人、そういうものを分ける定義はおそらく今の世界にはきちんと存在しているのだろうけれど、私はそれを隔てることのなかにはあまり興味もないしそのことで本質に踏み込める気もしない。
ケ・ブランリーやArts et métiersに行くといつも、森や深海を見たのと同じような気持ちになる。
手先口先で生きている限りは太刀打ちできない。
その居住まいは力が抜けていつつ、しっかりと根が下りている。
ちっぽけな自分(作家)だけのエゴや視点とは無縁だ。
作品とそれをつくる人との絆は、表面的で手っ取り早いものでなくてもよいのだ。
生活の間近に生き死にがあって、殺して食べ、山の中で真の暗闇に囲まれる恐怖や、頭上の林の葉が雨を受け止めるのを一晩中聴く、獲物を狩る道具には彫り物や飾りを施し神さまを宿らせる。
今みたいに電動ノコギリもない、生活の道具ひとつ時間をかけて手作りする。
手間はかかるけれど、その分そのものと接する時間が長くなる。
ひとつひとつの素材の違いに気づき、知り、対応していかないと創作は進まない。ものに自分の言うことを聞かせるだけではものはできない。ものの成り立ちを見つめ、耳を澄まし、知ろうと探らなくては簡単に姿を見せてくれない。
だから創作したものにエゴが張り付いていない。ものをそのものとして尊ぶ姿勢は、そのものに触れる時間から教わるからだ。
ものとの関わりから得た視線で、また世界を見る。

「死と生が日常と隣り合わせにある」などと言えばつい大げさにドラマティックに捉えてしまいそうになるけれど、彼らにとってそれは普通の状態であり、実は私たちにとってもそれは別世界なわけではない。
「生き死に」をいったん脇において、というかクリアした状態にすることを私たちが時代を重ねながらしてきたとしても、私たちはやっぱりその部分に蓋をすることなどできないはずだと私は思う。

日本にいるときと、フランスに移り住んできてからの私の感覚は明らかに違う。
家も階段も傾き、窓は締まりづらく、石畳は足の裏にごつごつ痛い。
日本だったら作業停止になりそうな工事現場。
その日の機嫌まるだしの売り子さんに、定時でキッチリ帰る駅員さん。
ネットに「在庫あり」と書いてあっても売り切れてる。
家具を買うとネジや部品が必ず足りない。
樫の木でできた机や椅子は華奢とは言えない私の腕でも持ち上げるのに苦労し、掃除機は業務用なのかと思うほど取り回ししにくく吸い込みが強すぎ、鉄鍋は大きく重く放っておけばすぐに錆び、あらゆるハンドル、あらゆる蓋は固く、開かない。
築100年の家に住んで、ひいおばあちゃんの来ていた服をまだ着ていて、濃いチーズやカビをまとったソーセージを食べる。
面倒くさいし、人間くさいし、時間がかかるし、思い通りにいかない。体力も精神力もうんと使う。
でも、だからこそ自分のメンタリティが少しずつ変わっていった。生きることは、こんなに費やされることなのだなと、私は今までちゃんと知らなかったから。
日本にいるときにはもっと無味無臭の、脱色されたようなものも受け入れることができた。さらりと自分の神経に触れずにも儚く通り過ぎてくれるような。
でもフランスに来て、替えがきくようなものにはあまり興味を持てなくなった。
なにかを表面的に掠め取っただけの、しかし見目良くデザインされているものがもてはやされたり、耳障りの良い言葉を発しているけれど行動が伴っていないことや、深くは知らないのに聞きかじったことだけを「ネタ」としてコラージュしてファッションにしているもの、そういうものにしょっちゅう腹を立てている。放っておけばいいのにいちいち頭をしゅーしゅーさせている。
そういうもが一般受けするというのは分からないでもないけれど、創作するひとまでがそこに取り込まれて流されている姿を見るとまったく嫌になってしまう。
その匂いを誤魔化しながら発表していることももちろんだけれど、その匂いに不感になってしまっていることに、いちいちつっかかってしまう。そうして、疲れる。

でも昨日ケ・ブランリー美術館に行って、私は過渡期なのだということをはっきりと自覚した。
腹が立つのもこれはまだ私が流動的だから。
自分のなかにこそそういった未熟や誤魔化しがあると認めているからなのだ。自己への嫌悪感を、投影しているにすぎない。

奥底にうずいていたものがやっと言葉を持ち始めたので、外に出ようとすがりついてくる。それこそ、頭でっかちな言葉だ。
でもそれと知りながら、日記なので書いておく。
最初の一握りの粘土みたいに、不格好だけど。

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