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東浩紀さんのコラムを読んだ

東浩紀さんのコラムを読んだ。
東さんは2011年の震災後にゲンロンという組織を立ち上げ、そして2018年の終わりにその代表を退いている。
私もまた震災後に、自分がしてきた表現手段から離れて社会に接続できる場所として「アパートメント」を立ち上げ、2019年のはじめにそこを離れた。

東さんの『テーマパーク化する地球』を読んだ時、私自身はアパートメントを通じてどう社会にアクションしたかったのか、何故なし得なかったのか、どういった種類の奈落を感じていたのか、そういうことをずいぶん考えた。
東さんのゲンロンとアパートメントでは、もちろん規模もタイプも全然違うのでこうして並べるのもおかしな話なのだけれど、すくなくとも個人的には、東さん自身が社会の動きの中で何を求め、何に絶望し、諦め、別の方向に舵を切ったかということと、私自身が関わりあってゆこうとしていた社会/人に対して感じるようになった虚無感のようなものは、その時期もあわせて近いものであるように感じた。

あいちトリエンナーレを皮切りに、アーティストは自分の世界に引きこもって作品を作っている場合じゃない、声を上げよ、今立ち上がらないでどうするのだ、という言説を耳にした。実際に友人に「いま戦わないなんて、いま意見を表明しないなんてアーティストとは言えない」と言われたりした。
どうにも自分の中ではうまく説明ができないままアクションを起こせなかった、いや、起こせないというよりは今のこの社会の論理のなかで、そういう方法ではアクションしたくないと思った。

このコラムの中には私が感じていたことの一部が言語化されているように思ったので、シェアします。

以下、リンク先コラムから引用。
"批評家としてというよりも哲学者として、SNS政治と関心経済に覆われたこの二一世紀の世界においては、ゲーム化したアクションに参入し左派ポピュリズムの駒になるよりも、ポイエーシスが開くべつのかたちの公共性に賭けたほうがよほど知的に豊かであり、誠実であり、そしてほんとうの意味で政治的なのだと答えていくしかない。"

アクションとポイエーシス: 東浩紀
https://kangaeruhito.jp/article/11923


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