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来歴

水商売

18の頃に商店街の一角にある純喫茶にアルバイトとして入店した。

昼間は喫茶としてオムライスやピラフをはじめとした軽食を提供しているのだが、夜になると同じ店内にあるパブスペースが開店して、お酒の提供が始まる。お酒や料理を作るのはマスターで、私は基本的に厨房内へは立ち入らない。バケツの氷を入れ替えたり、グラスや灰皿の交換をすることが私の仕事だった。

その喫茶店には大学4年間を通して勤めた。常連さんが多く、マスターの人柄もあって居心地のいいお店だった。大学が終わってからその純喫茶へ行き、お客さまたちに軽口をたたかれながらお給仕をするそれが、自分の性に合っているように思えて、自分はおそらく接客業に進むのだろうと思っていた。

実際、大学卒業を間近に控えお店を早めに辞めた後、渋谷のバーに店長候補として入店した。刺青の入った男性社員や言っていいこと悪いことの分別がつかない自称帰国子女、自分は人の目を見れば人間性が分かるんだ系や大きな腕時計を付けた自己顕示欲の塊や意識高い系……。苦手な人種ばかりで構成されたその会社は半年で胃をダメにしてしまい飛ばせていただいた。けれど、社員に関してはさておき、開店前作業もお客さまとの交流も閉店後のレジ締めや日報作業、発注作業……そういった業務内容を一人で黙々とこなすことに関してはやりがいを感じていた。

その後は地元へ戻って薄給ながらにお堅い仕事へ進んだものの、東京時代に形成された金銭感覚と現実生活に折り合いがつかなかった私は、日曜早番のデリヘルを始めた。14時から20時までの6時間出勤。夜遊びガイドに掲載された当時の謳い文句は「業界未経験!色白華奢な清楚系!ほぼ処女!」だった。

大学の頃からの経歴から、夜職に対しては何の抵抗もなかった。ただ、自律神経が弱い私にとって昼夜逆転生活は心身の重荷になっていたし、元々のメンヘラ気質が頭角を現し、クソ客が気に入らないだのクソ客に付かせたボーイが気に入らないだの、そのボーイを庇う店長が気に入らないだのわがまま放題の地雷嬢に転身し、気が付けば爆サイで「手首がイカ焼き」と書かれるような自他ともに認めるメンヘラ嬢となった。

普段の姿

最初にデリヘルに入店した時、すでに大学を卒業していたにも関わらず、私はハタチと記載されていた。

風俗歴はもう3年になるが、現在在籍している3つ目の店舗でも私の年齢は21と記載されている。3サバまではご愛嬌だと言われているし、実際20代前半であることには変わりないのでそこまで年齢にコンプレックスを持つこともなかった。

ただ、昼間の生活での私はもういい歳だった。まだ何も焦る頃ではないにしろ、そろそろノリと勢いだけではやっていけない限界を感じるようになった。周りの女子たちは大学卒業とともに年上彼氏と結婚したり、入社1年目で寿退社をしたり、デキ婚報告もチラチラと耳にするようになった。

私はものすごく仕事ができない。誰から見ても仕事ができない。今の仕事が向いていないというわけではなく、どこへ行っても何をやっても能がない。ならばせめて私生活くらいは充実させなければならないはずなのに、気心の知れた友人たちは関東に置いてきてしまったし、恋愛に関してはとにかくDV確変ガチャを引き続けている始末。

小学生の頃は先生の言うことを何でも聞くいい子だった。中高生の時はそれなりに成績もよくて大学進学に何の疑問も感じていなかった。大学に入ってからようやく、自分が自発的に動けない人間であるということをサークルや学校行事を通して痛感した。自分の頭で考えて動くことが一切できない。珍しく考えて動いてみれば「勝手なことをするな」「新人のくせに自己判断をするな」と言われてしまう。根本的に報連相ができない。忙しそうにしている人や、不機嫌そうな人、なんとなく怖い人に声をかけることができないため、組織内でコミュニケーションが取れない。取れたとしても円滑なものでもなければ的確なものでもない。

致命的に、自分は社会に不適合なのだと、18の時には気が付いていた。だから、四角四面な自身にがちがちに固められて身動きが取れない自分にとって、風俗という選択肢は逃げ場だった。不真面目でいても怒られず、上手くいかなくても捨てられない。誰からも何も期待されていない状況でようやく息ができると分かった。

何かできなければいけない、何かやらなければならない、役に立たないのならいてはいけない。そういったプレッシャーやストレスに日々神経を摩耗しながらたまに風俗で柄にもないことをしているこの支離滅裂としている自身の内面を形に残しておけたらと思い、今日から写メ日記をここで始めることにする。

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