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ほんものになりたい

家族のメンバーがそれぞれの支度にいそがしく動きまわる平日の朝、テレビを見ながらおもちゃで寸劇を演じるというマルチタスクをこなしていたはずの子ども(3さい)が洗面所にかけこんできたと思ったら、いったいどういう流れなのか泣いて「ぼくはほんものになりたいんだ!」と訴えた。

わたしと近くにいた夫はぎょっとしてそれぞれの動きを止め

「なにそれかっこいい…」
「フェイクじゃなくてリアルに…?」

とひととおりざわついた。

おそらくは「ぼくはほんものになりたい」からわれわれ大人が感じた意味とはまったくちがうことを子どもは言っていたのだけど(たぶんテレビに映っていたおもちゃのことを何か言っていた)、かれの意図するところはわからないままに盛り上がり、勝手に盛り上がっているうちに本人は興がさめたのか泣きやみ、家族の人員はまたそれぞれの支度にかえっていった。

子どもの限られた語彙と未習熟な文法との組み合わせは時として奇跡的な一文をうみだす。今回の「ぼくはほんものになりたい」はその新作だ。いったいどういう状況だったのだ。あとできいてみたが答えてもらえなかった。

それはともかくこの「ほんものになりたい」宣言はわたしにじわじわと浸透して、子どもを園に送って仕事に向かう電車でつり革につかまっているときには「わたしもほんものになりたい…」としみじみ考えていた。子どもが発したセンテンスはもはや発された意図を置き去りにしてわたしの心に突き刺さっていた。

本物とは何か、偽物とは何かはよくわからない。よくわからないのだが、本物に接したときは「ほんものだなあ」となんとなくわかるものだし偽物に触れるとしっくりこない部分があってどこがそうなのかわからないままにはっきりと気持ち悪さが残って「あれはにせものだ」と知らせてくれる。その本物さ/偽物さはもちろんわたしにとって、ということだが、作品にしろ、人の語りにしろ、本物か偽物かをわたしの五感はかなり厳密にジャッジしている。その厳密さでわたし自身をみたとき、本能ははっきりと「フェイクだ」と教えてくれる。わたしはフェイクだ。

本物か/偽物かは巧拙の問題ではない。少なくともわたしにとっては違う。そのもの自体の語りが・訴えが事実か虚偽かすらもほとんど関係ない気がしている。事実でないことのかたまりを磨きあげたようなフィクションの数々をわたしはいくつも「これこそほんものだ」と感じている。友人の語る妄想は妄想と知っていてさえ「ほんもの」としてしか捉えることができない。反対に、事実を述べているだけの人に「にせものだ」と感じることもある。どうやら内容が事実であるとか正しいことであるかは問題でなく、そこにつよい思い入れがあるかないか、というのが一番の基準であるっぽい。ようはわたしにとっての本物/偽物判断は「そこに愛はあんのか?おお?」という酔っぱらいの言いがかりに限りなく近いもので、だからわざわざ表明するようなものではなく、しずかにただ「ほんものだなあ」とか「にせものだなあ」と感じ入ったり怒ったりしているだけだ。

それにしても自分自身を「フェイクだなあ」とはっきり思うのはなかなかしんどい。なにが偽物なのか、偽物とはなんなのか、わからないけどわたしがそれにあたるということはしみじみわかるのだ。下手したらもう人生を半分生きたかもしれないのにわたしは偽物で、こんなのだめだって思う。自分のこと本物だって思いたい。それには本物になるしかなくて、本物ってどうやってなるの。わからん。

わからんけど今までわたしがさぼりにさぼってきたことをやる必要があるんだと思う、だってこれまでの生きかたじゃ本物になれないんだから。さぼってきたこと、つまり;圧倒的に足りてない知識を摂取しそれをちゃんと咀嚼し(咀嚼って自分じゃぜったい書けない)自分の頭で考え、考えたことを生活に落としこんでいくってこと。なにそればかみたい。まるでわたし30代も半ばでやっと物心がついたみたいじゃん。

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