●2020年12月の日記 【中旬】
12月11日(金)
色々あってきょう子どもと行くことを予定していたイベントがゆううつでゆううつで、そのせいだと思うのだけど盛大に朝寝坊してしまった。気がつけば9時、夫はすでに自室で勤務している時間だ。いつも6時台に起きる子どもも横でぷうぷう寝ていて、でもわたしがあわてて起きあがった気配で目を覚ました。寝坊はしたが、がんばればぎりぎり、イベントには間に合う。間に合ってしまう。ゆううつだ。きのう、子どもにも「あしたは○○だね」と予定をアナウンスしてしまったからやめるわけにもいかない。
そこでたぶん苦虫を飲み下すような顔で子どもに「身支度したら○○いこっか…」と言うと、0秒でとてもさわやかに「いかなーい!」と返事があり、「…そっか!!!!(パァァァアッ)」となってしまった。
イベントには行かなかった。
もしかしたら子どもにものすごく気をつかわせたのかもしれない。
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午後になって友だちに遊びにいってもいい?と連絡したところ、こころよく迎えてもらえることになった。これは心踊る外出。自転車圏内だから自転車で行くつもりだったところを子どもがきっぱり「でんしゃでいく。えきまであるく」と主張するので駅まで手を引いて歩いていった。駅まで15分、電車にのって10分、駅から10分。手をつないでこれほど長く移動できるようになったのか。ほんの数週間前まで手をつなぐことを断固拒否していっしょに道を歩くことはとてもできなかったのに。子どもはとつぜん成長することがあるみたいだ。
友だちの家でおやつをたべて、それから友だち親子とスーパーに行った。トミカを1台買った。友だち行きつけの児童館に案内してもらい、プラレールに貨物列車をはしらせる子どもをアシストした。閉館になって解散したあと、表にいた野菜を売るトラックからみかんを買った。子どもは果物を素通りできないからしかたない。リュックがずっしりしたところに、子どもの「だっこする」。…もう自分では一歩も歩かないぞ、という強い意志を、そのしがみつきかたに見た。肩がもげそうになりながらなんとか帰った。楽しい外出ができてよかったなあと思った。
12月12日(土)
長野で夫が買ってくれた高価なみそでみそ汁を作ったら段ちがいにおいしく、長野の方角めがけてひれ伏した。片手間でわりと雑に作ったのにみそがぜんぶいいようにしてくれた感じ。圧倒的みそ力。
12月13日(日)
りんかい線大井町駅が深くてエスカレーターからエスカレーターへ乗り移っても乗り移ってもまだ地下で、地上の光を拝むまでにくたくたになった。深さがすごい。ホームと地上でたぶん気圧が違う。
きょうは仕事。子どもと夫が玄関口で送り出してくれた。ふたりは楽しげにきょう遊びにいく公園について相談していた。まぶしかった。休日に仕事をすることは子どもが0さいのときからあって、そういうときは夫に子どもを一任することになるのだけれど、1さい前半ごろまではわたしが出ていくときにすごく泣いた。床に伏して声も出ないくらい泣いた。2さい近くなって今回は泣かなかったな、ということが出てきても、午睡からさめて母がいないことがわかると30分も泣きつづけたりしたらしい。夫はつらかったことだろう。いまのように父子でおだやかに過ごせるようになってほんとうによかった。あとできいたらきょうは子どものリクエスト通り児童館に行ってピザ屋でランチして電車に乗って公園に行ったらしい。子どもの求めとはいえ、夫がこれほど活動的な人だとは思わなかった。子どもとの暮らしはときどきわたしたちの意外な一面をあばき出す。大人だけの生活では見ようもなかったもの。B面。夫のB面は活動的で愉快で教育的だ。A面だけ聴いて聴き尽くした気になっていたカセットのB面は知らない音にあふれていた。
深い深い大井町駅から地上に出て、ともかく仕事をした。仕事でも、ひとりで行動するのはかけがえなく愛おしい時間だ。もともとそうだったのが子どもと暮らしはじめてさらにそうなった。子どもと過ごす時間だってかけがえなく愛おしいが、わたしにはどちらの時間も等しく必要なものだ。
昼休みをはさむ仕事はよその街でのランチチャンスだから休憩時間はうきうきと外に出かけた。たのんだ定食はあんまりおいしくなかったし店員はぶっきらぼうだった。ははは。それでもひとりだから、わたしががっかりするだけで済んでしまう。そういうのも含めて愛おしい時間なのだ。
家に帰ると子どもがまた一段とかわいくなっていた。ちょっと目を離すとすぐかわいくなってしまう。油断ならない。かわいい声を聞きながらにんじんを千切りにしておかずを作った。きょうはこれ。
ごはんがすすむ系。切り干し大根を水でもどさなくてよくて手軽だった。だいどこログ様いつも手順のすくないレシピをありがとう。食の好みが渋いで有名な我が子も積極的に食べていた。
12月14日(月)
すごくひさしぶりに夫と外でランチをした。店が寒くて夫はずっとこごえていた。ずっと再訪したかった店のランチが食べられてうれしかったが目の前でこごえる人に気をとられて味がぼやけた。
12月15日(火)
すごく寒い。スターバックスに寄ってチャイティーラテを飲んでから仕事先に向かった。ふふふ。優雅だ。余裕ある大人だ。
残りのチャイ片手に仕事先の更衣室に着いて気がついたことには、かばんがない。涙目。ダッシュでスターバックスに戻って椅子にひっかけたかばんを回収して(あってよかった)更衣室に引っ返したらもう時間ぎりぎりだった。なにが余裕ある大人だ。あわただしく着替えるいつものわたしだった。わたしに優雅はむずかしい。
昼すぎに仕事先を出られたから美術館に寄ることにした。
ピカソの「青い肩かけの女」、モディリアーニの「カリアティード」、マックス・エルンストの「少女が見た湖の夢」、モーリス・ルイスの「ダレット・シン」がすてきだった。
ジョージア・オキーフの「抽象 No.6」、ガブリエーレ・ミュンターの「抽象的コンポジション」、ジャン・デュビュッフェの「二人の脱走兵」が気になった。
まともな美術の知識もないし、疲れると感受性のスイッチがすぐ切れる。だから前半の作品はにらむように見ていても後半はろくに見えていなかったと思う。美術作品を深い興味をもって眺めたいと思う。わたしのような者にはとっかかりが必要で、たぶん推しの画家をつくるといいんだと思う。マックス・エルンストという人の絵が今回とても目に焼きついていて深掘りしたい気持ちがある。
12月16日(水)
いつもは乗らない路線の電車に乗ったら高い位置を走る電車で空が遠くまで見えてよかった。地平線のちょっと上のところにちまちま浮かぶ雲がズラーッと見えて新鮮な気がした。積雲?きょうは雨降らない感じかー、って子どものころに『冒険図鑑』よんだていどの知識で思った。
12月17日(木)
保育園に向かうとき薄い月がうかんでいて子どもと見ながら帰ってこられるなあとうれしくなった。園の玄関口ではしゃいで駆けまわる子どもの手をなんとか掴もうと追い回すわたしに、先生が大きな声で「月のりたいねえ、って言ってましたよ!いいですね!」と教えてくれた。瞬時にきょうのうすい月をロッキングチェアのようにして座る子どもを思い浮かべて「たしかにいいなあ」と思った。
12月18日(金)
ひさびさに子どもとふたりで過ごすなんの予定もない平日。どう過ごすか昨晩からわくわく考えていた。子どもの要望は「山手線のりたいよねえー」だったので、山手線を経由しつつ近場の海に行ってきた。
手をつないでいるとはいえ岩場をぴょんぴょん渡り歩く子どもをたのもしく思った。
12月19日(土)
子どもが池に落ちた。浅い池でよかった。水場のある大きな公園で子ども2人、大人3人で遊んでいたときのことだ。2さいの子どもとこれまで何度も池の近くで遊んできて、いつ落ちるかいつ落ちるかとはらはらしてきたけれど、危なっかしい足どりでも不思議と落ちないのでいつしか油断しきっていた。もちろん海とか高い岸とかでは手をしっかり握るけれど、子どもでも足がつく小川や池では側にひっついて見ているだけになっていた。きょうもちょっとはらはらしながらも、でも不思議と落ちないんだよなーなんて思っていたそばから落ちたからびっくりした。どぷんと音がした。腰まで池の水に浸かり、なにが起きたかわからず途方に暮れているようすの子どもを見たわたしはばかみたいに「落ちた!」と言った。ほんとうに落ちることもあるのだ。
ワンテンポおくれて泣きだした子どもをあわてて引き上げた。含んだ水のぶんいつもより重かった。連れの大人ふたりが、着ていたコートを駆使して壁を作ってくれて、その中で着替えをさせてもらった。着替えのときいつもケタケタ笑って逃げまわる子がしんなりとおとなしく、実にかんたんに着替えが終わったから、あらためてかわいそうに思った。
脱がせた服を袋に詰めて入れたら荷物がかなり重たくなった。ぎゅっとしぼったのに。池の水と泥がおみやげだ。
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わたしが服をしぼるあいだ子どもを抱いていてくれた友だちがプレゼントしてくれたトミカ……。最高だ。ちなみにこのブタが1頭でも倒れたり落ちたりすると子どもが本気で泣く。そうなると絶望のあまり自分では直せないから、わたしか夫がかけつけて直すことになる。ブタならべ屋さんだ。
12月20日(日)
昼寝をしなかった子どもは夕方、低温にあたためたホットカーペットに転がっているうち、いつのまにやら眠っていた。こういう寝入りかたははじめて見たものだから、夫とふたりで「寝ている…!」とひとしきり感動した。テレビをながめながらホカペのうえで寝てしまうなんて、なんというか、すごく人間くさい生きものになったなあと感慨深い。
乳児〜幼児期の子どもはちょっとした(?)理不尽のかたまりでありながらも、どこか人間を超越した存在のように思えるところがある。俗世にまみれ、日々生活上のことに頭を悩ませるわれわれ大人の上位の存在として、ぷくぷくしたほとけさまか何かのように思えるふしがあった。よく赤ちゃんが「天使みたい」とか形容されるのもそういうことなのだろう。少なくともその時期の子どもは"生活"の世界には住んでいない。
しかし、もうすぐ3歳になる子どもはこれから大きくなっていくにつれ、はねをたたみ、地に足をつけ、生活の場をひろげて、どんどん人間くさくなっていくのだろう。わたしたちのように。それはそれでとても楽しみなことだ。
だらりと重たくなったちいさな人間をそろりそろりと寝室に運搬する。途中目をあけて少し泣いたがすぐ眠りに戻った。布団におさまった寝顔をみていると、でもまだやっぱり、仏像みたいに聖なるなにかがひかるように感じた。いまはこの子のなかに両方いるのだなあと思う。人間への移行期。